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長崎にひっこしました

何年つくばにいたことだろう。タイトル通り、お引越しです。と言っても今年の春頃ですが。長崎(長崎市)、おもしろいところです。自分は福岡生まれ。なので生まれた島に戻ったとも言える。その点では同じ九州のノリも感じられるんだけど、やっぱり独特な雰囲気もある街。長崎。

海に注ぐ川のそばを歩くとほんのり海の匂いがする。

引っ越してきた日に家の風呂に入っていたら遠くから汽笛が聞こえてきた。おそらく、港から。なかなかいい気分になったんだけど、その1回だけ。たまたまだったのか、聞き間違いなのか。

ちゃんぽんは店で食べるものになった。実家にいた頃は母親がどさっと作ってくれるものだったけれど。買い物や作る手間を踏まえると、1人ではなかなか作る気になりませんね。
そういうネガティヴな理由に限らず、普通に店のちゃんぽんはおいしい。
皿うどんもおいしい。むしろ皿うどんばかり食べている。太麺の皿うどんというものを、ここに来て初めて知った。ぶっとい麺(ちゃんぽん麺?)を炒めて、その上によくある(ぱりぱりの細麺)皿うどんの餡をかけたもの。ものすごくおいしい。あんかけ焼きそばの餡が、醤油ベースではなく豚骨スープベースになったような(他にも色々違うけど)ミルキー感。ただ、店によってもぜんぜん違う。下の写真は引っ越してきて色々巡ってみたものをまとめたもの。おすすめはヘッダにもした「赤坂飯店」。甘すぎず薄すぎずからすぎずのバランス感が一番いい。

皿うどん(太麺)たち。

しかし、いわゆる町の中華料理屋さんめいたところがことごとく老年夫婦によるものでちょっと心配になる。今の代がリタイヤしたらそのままお店を閉めるということになり、リンガーハットだけが残った、という風になるのかな……と考えてしまう。リンガーハットの他は、中華街(意外とエリアが小さい)の中にある、やや格式めいた”レストラン”で食べるしかなくなる、のかもしれない。つまりは他の街と変わらない付き合い方になりそうだ、という予感。そんな寂しい想像をしながら食べている。町のお店で食べる長崎のちゃんぽん/皿うどん、という文化は今後10年残るかどうかくらいかもしれない。

バイク(特に原付)が縦横無尽。と言うと言いすぎかもしれないけれど、存在感がある。おまけに路面電車も走っていて、しばらくは運転がおそろしかった。地元の人曰く、ひとむかし前は、路面電車は邪魔な車などをぶっ飛ばして(物理)走っていたそうな。

「原爆」があちこちにある。市役所には「マイナンバーカード」や「印鑑登録」などと並んで「被爆者援護」という窓口がある。
これはしかたのないこと。引き剥がせない土地の記憶。他の土地に比べて「平和」という語の存在感も大きい。さまざまな地名や建物、団体などの名前に「平和」がくっついている。ただ、溢れているが、擦り切れてもいないし薄まってもいない。むしろ「『平和』を求め続けていくんだからな」という、最後の被爆地としての矜持みたいなものを感じる。

風が強い。

坂が多い。と言うと道の傾斜がややきついみたいな印象になるけれど、もうちょっと凄まじさがある。単なるアップダウンというよりは、山の傾斜にへばりついて生活をしている、ような。逞しさ、または執念めいたものを感じる。街があるから人がいるというよりも、人がいるから街なのだ、という気概の様相。

陸の孤島と言うより、陸地の果て。日本の端、九州の端で、「この中で生きているんだ」という物理的な感覚が強い。Googleマップなどで「長崎市」を探してみると、多くの人にとっては予想よりも「端/先の方」なのでは。関東で暮らしていたときは、のぺっとした関東平野の中に色々な街・都市があって、縦横に道路や線路で繋がっていた。「この道を行くと次の街」という感覚があった。遠出も、(ある程度の範囲内であれば)日常の延長線にあった。
一方で、長崎(長崎市(の中心部))。西・南は海、街は斜面に囲まれていて、北(佐世保)に行くにも東北(佐賀・福岡、なんとなれば東長崎・諫早であっても)に行くにも「越えていく」必要があるように感じる。ほんのりとした隔絶。
長崎生活にやや慣れた頃関東に赴く機会があったけれど、羽田から品川に出る京急の時点で、どこまでも街が続いていて、おののいた。平らだし。

あれもないこれもない、というド田舎暮らしが辛いというのも理解はできる(実感はない)が、ほとんどなんでも一通りあるけれど、一通り程度にしかなくてちょっと高望みすると限界もすぐ見える、という頭打ちの感じもそれはそれでずっと居るには辛いんだろうな、ということを思う。
画材が買いたくて画材屋さんを探してみた。いくつかはある。一番大きい(と思われる)ところには欲しいもの自体は一通りあったけれど、バリエーションがない。同じ用途のものを求めたらみんな同じものを買うんだろうな、という感じ。加えて、他に店が見つかっても、新参者にはやや入りにくいというか、どのレベルまで一市民に対してオープンなのか(個人客向けではないのかもしれない、みたいな)ということが分からず、逡巡する。
サイゼリヤはない、とか、バーガーキングはない、とか、なくてもすぐには困らないのに、「ないこと」ばかりが強調されて意識に残る。なまじ県庁所在地として大体なんでもあるだけに、「大体」に含まれなかった欠落が目立ってしまう。
必要なものが必要なだけある程度(カステラ屋さんは多いと思う)。街が飽和しきっていない。関東で感じるような、「どこまでも街が続いている」という感覚もない(どんな都市にもあるわけではないけれど、東京以外の都市でも他の街と「連続的に存在している」感覚はあった)。果たしてそれが良いことなのか、というのはまた別の問題として存在すると思う。先に書いた「この中で生きている」という感覚とあいまって、場所的にも、その中のコンテンツ的にも限界を感じてしまいやすいというのはありそう。

と、最後の方は何やらネガティヴめいた書き方になってしまったけれど、全体的にコンパクトで、便利で、楽しいという気持ちの方が大きい(コンパクトさを咀嚼しまくった先に限界があるのだろうなとは思うけれど)。長崎ぐらしは、ここまででおおよそ半年。これからいつまでいることやら。みなさまも機会がありましたら、ぜひぜひおいでください。

本とか買います。