質問するという行為について考えてみる
皆さまご機嫌いかがでしょうか。ヨガインストラクターで日本茶アドバイザーの まるやま ゆみ です。
私の文章に目に止めていただきありがとうございます。
今回は、私の心に残っている言葉をご紹介します。
信用していない人からのアドバイスは受け入れられない。
アドバイスを受け入れてくれない人は信用できない。
確かに。
私はただ深く静かにうなずきました。
そして、これは自分に向けられた言葉だなと思いました。
アドバイスをする先輩の気持ち
以前所属していたヨガスタジオで、インストラクター長的な方に怒られたことがあります。
「あなたは何故質問をしないのか。」
恐らくアドバイスする側は、仲間に入ってきてほしいのだと思います。
途中から仲間に入る若い人に対して、切磋琢磨し、ともに成長し合える仲間になって欲しい。そしてともに集団を盛り立て、最終的には自分に変わってその集団を守り育てて欲しい。と、あれやこれやと手を尽くして提案をしてくるわけです。
アドバイスされた側の気持ち
「…。」
質問に対して、私は何も答えませんでした。
それは、質問することが無かったから、質問していないだけであって、特段理由はありませんでした。
ただ、こう言われているということは、発言者から見て私が何かに困っていたり、理解できていないように思うような行動をとっているということでしょう。
「質問はありません。分からないことなど何もありません。」などと話しても、揉めるのは目にみえていましたし、私を叱った人が入ってほしいと思っている集団は宗教的なものだったので、絶対に入るつもりはありませんでした。
アドバイスを受けた側にもプライドはあります。
自分の力で何とかやっていけると思って虚勢を張っている。ロボットになりたくないと思ってもいる。自分の力で道を切り開きたいと思えば、先輩のアドバイスも有難迷惑なことがあります。
現在は、そのヨガスタジオを離れ、別の先生の元で修行を続けています。
今の先生には、自分で考えて、調べても分からない時、先生が思わず笑うような、とても細かいことでも質問しています。
笑ってしまうようなことでも、私の気持ちを配慮して聞いてくれる。
頭ごなしに質問内容や私の気持ちを否定しない。
そして、適格に、真摯に私の疑問に答えてくださる。
これを信頼できるから、私も安心して質問ができるのだと思います。
今思い返せば、以前、私が怒られた人に質問を一切しなかったのは、こうした点において安心できなかったからではないかと思います。
そして、私の自信のなさの裏返しです。自信がないことを絶対悟られたくない相手だから質問をしたくないのです。
質問=猫のへそ天
こう考えると、質問するというのは、猫がへそ天できるくらい安心できる状況にいないとできないことだと思います。
子猫なら、それほど気にせずへそ天になれるでしょう。誰かれ構わず「これなあに?」「これなんで?」と質問できると思います。
でも、大人になるとそうはいかない。
無駄なプライドは、とっとと捨ててしまった方が良いとは思いますが、自分が傷つく可能性があると判っているのに、飛び込んでいくのは自傷行為です。
猫にへそ天してもらえる環境を作るというのは、飼い主にとって本当に大切なことです。日々反省し、自分を戒めていかなくてはいけませんね。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
また、読みに来ていただけたら嬉しいです。
それでは。
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