「でした」の意味がわからない

本を読んでいて、「◯◯でした」の意味がわからなくなった。

きっかけは鈴木孝夫, 『日本語は国際語になりうるか: 対外言語戦略論』, 講談社 ,1995を読んでいた時のこと。
この本は2の『日本語は日本人だけのものなのか』(中央公論連載)が「だ・である」であるのに、3の『文明史的観点から見た日本語の国際化』(国際交流連載)が「ですます」である。また、この「ですます調」も
Aはこれこれこうである。Bはhogehogeな理由でfugafugaである。したがってAのほうが優先度が高いと思われます。
と句点の前が必ずしも「ですます」ではない。
と言いつつ読み返していたのだが、違和感を覚えた文章を見つけられていない。

さて、この「でした」とは
「です」+「た」と
「で」+「する」+「た」
の二通りに解釈できて、ですます調かだである調かわからないのではないだろうか。
と思っていたら、フォロワーの方に意見を頂いて、理解が深まった。マジでありがとうございます。

前提として
「た」の意味が過去だけではないことは周知の事実であるが、「た」については本稿では論じない。
「申し訳ございませんでした」がいけて「申し訳ございませんです」が微妙。
「申し訳ないです」がいけて「申し訳ないでした」が微妙。
であるのは、「でした」が「です+た」なのか「で+する+た」のどちらと判断されるのかとは関係なく、「た」をつけられるか否かの話だからである。
また、「正しい日本語でない」は論ずるに値しない。
「すみませんでした」ではなく「申し訳ございません」が正しい、とは「すみませんでした」を「すみませんでする+た」ではないときちんと判断しているからである。
つまり、「でした」が「です+た」であるか、「で+する+た」であるかを見分ける術はなんなのかが議論の的である。
また、非文であるジャッチをn=1でするのは怪しいので本稿では、非文とは断言しない。

以下面倒なので「ですます調」を敬体、「だである調」を常体と表記し、「で+する+た」を例文以外では「でする」、「です+た」を「です」と示す。

例文を考え、内省してみた。

・主語(主格?)の行動が前後の文脈と一致するか
次の二文を考える

1.(a)「私は元カレからDVを、特に性的暴行を受けていました。わたしはダッチワイフでした」
1.(b)「何をおかずにした?」「俺はダッチワイフでした」


この二文は主格が「私」か「俺」であるだけで、それ以外は何も変わらない。にもかかわらず、1.(a)は「です」、1.(b)は「でする」と解釈できる。
1.(a)は前の文章から「私は」は暴行を受けている側であるので、「ダッチワイフで何かをする」というのは文意がおかしい。したがって「です」と解釈できる。
1.(b)は疑問文が「何でオナニーをするか」と聞かれているので「ダッチワイフを使った」の解釈となる(だろう)。

・前後の文章が敬体か常体か
1.(b)は疑問文が常体である。これに対して敬体で返答するのは変であるので、「でする」と解釈できる。
ただこれはかなり怪しい。

2.(a)「どうしてこんなことしたの!?」「不注意でした」

は疑問文が常体であるのに、敬体であろう。

・を格が省略されていることが明らか
を格がつくということは、他動詞である。

3.(a)「ラーメン食べた?」「食べた」

3.(a)の「食べた」は「ラーメンを」が省略されていることが明らかである。
1.(b)は「オナニーを」が省略していることが読み取れるだろう。

・で格の前の名詞が形容動詞になりうるか否か
「静かでした」は「静かなり」と形容動詞になるが「静かする」と複合動詞にはなりにくい一方で「静寂でした」は「静寂でする」をまだ「静かで、する」よりより容認できる気がする。この二文は「〇〇な場所でする」の「な場所」を省略しているのを容認できるのか。
「喧騒でする」はいけるよりの怪しいだが、「美麗でする」はいけないよりの怪しい感じ。

・ですますは女子供向き
論ずるに値しないが、紹介だけする(平尾昌宏, 『日本語からの哲学: なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか? 』, P58)

文章から内省してみたが、統語論としてはどうだろうか。
Minimal attachmentがあり、これは一時的曖昧性の対処に対して候補の構造が必要とする接点の数が決め手となるというものである。

「AはBでした」の構造を考えると、

[Aは] [Bです+た]
[Aは] [[Bで] [する+た]]

となるため「です」の方が接点が少なくなる。
故に「AはBでした」は敬体の方が先に候補に上がる。

4.(a)「三枚おろしどうやりました?」「包丁でした」

4(a).を「包丁でする」ではなく「包丁です」で解釈できるのは、このとおりである。
また、1.(b)はガーデンパス効果から「です」で解釈できないので「でする」で解釈し直している。

ここまで考えてみたが、4.(a)のように「でする」でも解釈できるのに「でする」の容認度が低くなりそうな文章が説明できない・・・
なんかわかったら次を書く。

参考
鈴木孝夫, 『日本語は国際語になりうるか: 対外言語戦略論』
井上雅勝『日本語文の理解における曖昧性の解消と保留』
中井悟, 上田雅信『生成文法を学ぶ人のために』
平尾昌宏『日本語からの哲学: なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』
菊地康人, 『敬語再入門』


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