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星を見る

 しんと冷えた冬の夜空。星々を見る。
 去年の冬。ゴミ出し。空き瓶と空き缶の入ったダンボールを外に運ぶ――

 人生で流星という現象をまだ一度も自分の目で見たことがなかった。一目見ようと長居の競技場へ行ったが流星を見ることはできなかった。それから一年が経つ。
 長居公園は照明灯や公園周辺の建物の光で、夜でも明るかった。すでに流星を見ることを半分諦めていた。広い公園。時計台。ひっそりとした公衆トイレ。走りこみをする人。一人できている高校生がいた。天文部だったりするのだろうか、と思った。まだ歩き始めてすぐなのにもう引き返して家に帰りたくなっていた。地面を蹴りつける殺伐とした音がして、自販機が立ち並ぶ前で男がスケボーをしていた。バンドエイドのような形の板を、足元をくるくるっとさせて弾く。どうなれば技の成功になるのか知らないが、この弾く動作がしばらく繰り返されて続くんだろうなと思った。たとえ流星が現れたとして、一個、二個の細い光の筋が何だというのか?
 自分は天体など興味がなかった。お行儀のよいものに思えた。もっと激しいものがいい。流星がシャワーのように降り注ぐのであれば……それはしかし自分の持っている感受性の限界なのかもしれない。流星を見る、それはすでにわかりきっていることのように思えて、わざわざ公園を歩くのが途方もない気がした――

 ズボンの裾が揺れる。暑くなってきた。
 ロンTに薄いパーカーにウインドブレーカーの重ね着。雨が被らないように前にして背負っているリュックの中身が、ざくざくと揺れる。まだ朝早いので車の通りは少ない。
 通路に水溜まりが広がって、道が塞がり通れないので、迂回して通ろうと道の端に寄ると、木の枝にビニール傘がぶつかって、頭上を見ると枝が曲がり葉っぱが傘にべったりと押しつけられていた。
 側溝の蓋に捨てられたタバコの箱がくしゃくしゃになって濡れている。その横に何故かビー玉が落ちている。けっこう大きい。反射で光った。
 ツタヤに借りていたDVDを返しにきた。まだ店は閉まっているのでポストに返却する。そのあと隣にあるコメダ珈琲店でモーニングにすることにした。
 屋根の下に入って傘を閉じ、広がりをまとめようとバンドで留める。反対だった。ちゃんと留め直す。パチッ……となりかけたところでばさあと留めそこねて、積雪が崩れ落ちると震える杉の木みたいになる傘を、もう一度やり直して、二回目で留め終わる。
 店に入る前に傘立ての横で、濡れていないことを確認してからリュックを地面に下ろして置く。上着を二枚とも脱いで、ロンTの袖をまくる。胸をパタパタさせて首元から風を送り、体の熱を調節した。
 十一時にコメダ珈琲を出た。
 で、これからどうしようか。
 家に帰ったところで布団でスマホをいじるしかないだろうから、外で無理にでも時間をつぶしたほうがいい。高校時代の通学路にもコメダ珈琲店が一軒あるのを知っている。そこに行くか? することがないからって、コメダに行くことしか考えられないのが馬鹿らしくなる。作業も結局いつも進まないし。お金も使いすぎだ。何をしに外に出ているのか。
 朝の光が昼の光になるにつれ強くなるのがだるい――

 起きて風呂に入ったらもう夜。カフェに行けない。晩飯を買いにだけ外へ出て自転車でコンビニ。空にオリオン。

 夜中の三時頃布団に入って、で寝れた。そのあと、朝か昼に起きたかどうか忘れたけれど次に起きたら外は暗く時刻は夕方の五時半だった。
 自転車でコンビニに行く。のれんの広告にポケモンの新作ゲームが発売とある。十五年前のソフトのリメイク版。そう、流星群といえば「ディアルガ」の「りゅうせいぐん」だ。

 早朝の自転車はとても寒かった。コートにマフラー、手袋。
 開店すぐのコメダ珈琲店はスキー場のレストハウスみたいな空間だった。

 十二月。ふたご座流星群。
 澄み渡った夜空に、線路の工事なのか、コーン、コーン、と駅の周辺にその音が響く。寒い。もっと厚着してくればよかった。スクランブル交差点を渡り、府営住宅が立ち並ぶ通りを自転車で、ペダルをちょこちょこ小刻みに踏んでゆっくり進み、前方の確認を切れぎれに挟みつつ、空を仰ぎながら移動する。風が冷たい。寒さを我慢する。池を過ぎ、通りを抜け、信号があるところのの手前で、「ぱっ」と光った。見た! 流星だ。これがそうか。
 ――がちゃがちゃと建物の切れ端が視野に入りこむ。ごつごつした石が水面に顔を出すように。水面は夜空。上を見ながら、小刻みにペダルを踏んでちょっとずつ移動するのがまるで、逆さまの世界を自分がアメンボのようになって流星を探索しているみたいだ。
 鉄塔地帯の暗闇にさしかかる。そこで自転車から降りた。しゃがんで、じっとする。暗闇で穴のようになった場所から空に向けて視線を放つ。待つ。流星が二つか三つ流れたのを見た。視線を戻す。
 すると、青白い影に輪郭がくっきり浮かんでいる――石塀、木々の葉っぱや、フェンス。さっきまで暗闇の底だった物がはっきり見える。事物の輪郭は暗闇に拡散せず、いきいきとしていた。そうか、暗闇に慣れてくるので、夜を、夜は暗いものだというふうには捉えなくなるのだ。こんなにもはっきりと見えるのだったら、黒で塗りつぶされることが暗闇の意味ではない。
 何かがリセットされた。と、そう感じた。
「出掛けることの感覚」が変化した。そうではないか? 家を出たら外はどこまでも無限につながっているのではない。家を出たらそれは「無限」に一歩踏み出すことという、外に出かけることの途方もなさ。しかし違った認識が芽生えてくる。それは、ある限度へ一歩踏み出すことなのだ。暗闇は「限度」である。
 流星を見るために。出掛けて、流星を見る。じっと待ち、時間が経つと、暗さに慣れてきて、そこである限度を通過する。暗さの限度。
 その限度に達すると、時計の針が逆戻りを始めるように、暗さによって一度かき消された事物の輪郭が、再び輪郭を取り戻してくる。そのあと、その輪郭に対する認識は、それ以前とは異なっている。
 家の外で見る石塀、木々の葉っぱ、フェンス……ではなくなっている。
 外にあった石塀や、木々の葉っぱや、フェンスなどなどの各事物が、ある「ルーム」へとテレポーテーションを起こしたみたいに、また、石塀や葉っぱやフェンスの輪郭を外から室内に持ち帰ってじっくりと再確認しているかのように、そういう、外が部屋になるような感じがした。
 外にいるけど、外にも限界がある。限界を迎えて外が部屋になる。誰やらわからない人影も、青白い暗さのなかでは顔の表情が見える。同じ空間にいる。同じ空間をその人と共有している。
 外が部屋だから、自転車で通りかかる人がいてその人は外のアスファルトの地面を走って自分と偶然すれ違ったのではなく、フロアを二輪でこっすているのだ。部屋のなかで移動するのだから、そりゃいずれ鉢合わせることもある。無限における偶然じゃなく、ある範囲内においてのたまたまの出会いだった。だから、まったくの他人でなく、何故かどこかで既に会ったことのある人、知っているかもしれない人だった。そういうふうに思えた。
 大袈裟だろうか。たんに暗さに目が慣れてきただけである。たんに。だが、流星を見た。流星という現象にはそれほどの意味はない。が、流星を見るという経験が、感覚を変化させたのである。出掛けることの感覚。そこにスイッチを入れた。
 ふたご座流星群。
 自分が暗闇に重なったのかもしれない。暗闇に体を重ね、暗闇が通過すると世界が逆戻りを始めて反転する。
 部屋の電気をパチッと点けた。外で。すると外が部屋になった。
 流星が走るその傍らで、暗闇を相手にし、暗闇と重なり、暗闇が通過した痕跡のなかで世界を別様に体験し直す。
 世界の認識のちょっとした変化。

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