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マグダラのマリア(後編)

 母は海辺のベンチに一人座って、目を閉じ、波の音に耳を傾け、小さな身体で風を受け止めている。私が歩み寄ると、母は目を開けて私を優しい目で包み込むように微笑みかけた。私は隣に座り、母と同じように自然を全身で感じていた。同じ空間に居て、一抹の気を払わなくても調和出来る。部屋の白いカーテンが強い日差しや世間を忘れさせ、内側に居る者を穏やかな世界に安住させるように、母の隣にいると一つの安寧とした世界を感じることができた。ふと横を見ると、母はベンチから居なくなり私は辺りを見渡す。海を見ると、下半身まで海に浸かっている母が迷わず海に向かっていた。私はベンチから飛び上がって海に向かおうとしたが、力の入れ方を忘れたように座り込んだままだった。仕方なしに全てのエネルギーを声に変えて、
 「お母さん!!お母さん!!」
 と呼びかけたが、母は聞こえた素振りも見せぬままさらに深く沈み、二、三度の波を浴びるとその姿は完全に消えてしまった。

 蝉の鳴き声の鬱陶しさを払うように私は目を覚ました。昨日はクーラーを点けずに寝たので、身体が汗ばみ、腕や鎖骨あたりを触るとベタついて不快だった。リビングからは、テレビの音が聞こえてくるので、父はもう起きているのかと思いスマホで時間を確認すると、11時を過ぎていた。そんなに寝たのかと呆気に取られている私の口は、事実を裏付けるように渇いていた。左手の中指の先を見ると、ティッシュが剥がれ、血が固まったものが突出した鉱石のように暗い光を孕んでそこにあった。父にバレてはいけないと思い、机の引き出しから絆創膏を取り出して、血の塊を取り、血が出る前に指に巻いた。リビングの扉を開けると、冷房の風が私を吹き抜け、鬱陶しさや暑苦しさを風と共にどこかへ運んでくれるスッキリとした気持ちよさがあった。テレビを見ている父のもとへ行こうと、左手にあるテレビとソファーへと進み目を向けると、ソファーの前にある机の真上に取り付けられた照明器具からてるてる坊主のようにぶら下がった父がいた。
 クーラーの風を浴びて、ゆっくりと旋回する父の身体を見て私は硬直した。目の前で起きている事態にどう動き出せばいいか脳が計算出来ずにショートしてしまったみたいだ。昨日の内に、自分の肉体を用いて精神を修復できることを父に教えておくべきだったと自分の怠惰さに悔恨の情が溢れたり、どう下ろせばいいんだろうとか、警察や救急車を呼ぶべきなんだろうかと、あれこれ考えてると行動するのが面倒になってきた。母の死は癌のように家族に広がっては、父の死を目の前にした私の精神までも腐らせた。
 台所の引き出しから鋏を取り出して、キッチンの椅子を父の横に置き、その上に乗って、背伸びをしながら紐に鋏を入れた。父は足のつま先から落ち、そのまま機械的につま先を支点とした円運動のように上半身をフローリングへと揺らし、頭部を強く打ち付けた。鉄球でも落としたかのように父の頭部は地面を鳴らした。私は椅子から降りて、父の体を大木でも転がすように踏ん張って力を入れてひっくり返した。肌の色は白い方の父だったが、顔近辺の肌は蒼白していた。下半身には血が溜まっているのか、短パンから下の足は赤紫色で、昨日私が出した血は、父の身体のどの部位から出しても見えないのだろうなとガッカリした。私は深いため息をついて、手に持っていた鋏で父の頬を突いた。首辺りは足と同じような赤みがかかった紫色でその中心には紐の跡が首輪の跡のように残っている。私は父の横に寝そべり、頸あたりを嗅いでみた。鼻の奥をツーンとさせる酸っぱい臭いと使い古された枕のような臭いがした。
 冷たい父の手を握って天井を見上げて考えていた。これからどうしようかと。これから待っている私の生を考えると到底生きていけると思えなかった。せめて別の体があれば。父の死体を見ても、汗も涙も出なければ、身体のどこかが痒くなるような感覚も訪れなかった。使い物にならなくなったのだろう。そうだ。父の肌を私が着ればいいんだ。そうして私が父として生きていこう。支離滅裂で荒唐無稽な思想は私の生を繋げる為の唯一の代物になっていた。私はもう一度父の体を反転させて、うつ伏せにした。台所から果物ナイフを持ってきた私は、服を作るために布を切るみたいに、父の首の付け根の真ん中から背中に向かってナイフを入れた。昨日見た自分の血よりも濃い赤色の血が父から溢れ出してきた。右手でナイフを入れて、左手で皮膚を包装箱のガムテープを剥がすみたいに試みたが血で滑り上手くいかない。そこで鋏で皮膚の下を切りながら剥がしていくことにした。私の両手は血で染まり、自分でも腕かどうか分からない固体になっていた。不意にインターホンが鳴った。私は作業を一時中断して、モニターを見ると父がたの祖母が映っていた。
 「おばあちゃん、来てくれたの。ありがとう。」
 私はそう言ってエントランスのドアを開けて、おばあちゃんを向かい入れた。おばあちゃんが部屋まで上がってくる間に、冷蔵庫のヤクルトを飲んで椅子に座っていた。再びインターホンが鳴ったので、玄関に向かいドアを開けた。母の葬式で会った時よりも皺の深みが増しているようだった。
 「きゃーー!!!」
 「どうしたのおばあちゃん!」
 「あんた何があったのよ!!!どうしたのその血は!お父さんは!どこにいるの!?」
 「落ち着いておばあちゃん!今お父さんは私が直してるから。」
 私がそう説明すると、両手を震わせたまま私を押し退けて、部屋の中へと勇み足で向かった。そして血の池でうつ伏せになった父の死体を見ると、その場で座り込み、
 「茂!!なんでよ!!なんでこんなことに!」
 私は、後ろから近付いて、
 「おばあちゃん、大丈夫だから。」
 「何が大丈夫よ!あんた自分が何したんかわかってるの!」
 おばあちゃんは黒のカバンからスマホを取り出して、警察に連絡し始めた。私はめんどくさくなって、自分の部屋のベッドに寝転がりリビングから聞こえるおばあちゃんの泣き声を聞きながらもう一度深い眠りについた。

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