マグダラのマリア(前編)

 美しく芝蘭と称賛されていた母が亡くなった。私も父も知らない男と海に身を投げて心中したのだ。その日から、私と父の世界の色彩が消えただけでなく、幸せを彷彿とさせる音色も消えてしまった。

 クラスメイトの麻里子と紗奈と教室の後ろ側で席をくっつけて昼ご飯を食べていた。麻里子が最近始めたファーストフード店のバイトの様子を私と紗奈で色々質問したりしていた。麻里子は業務自体は忙しくなっても別に嫌じゃないけど、人間関係がめんどくさくならないかを心配していた。紗奈が良い人はいるの?と聞いたところで、教室のドアが開き、担任の高橋先生が素早く教室を見渡し、私を発見すると、
 「加藤さん、ちょっとこっちに来てくれる?あ、荷物も持って。」
 教室内の喧騒は先生の登場と共にテレビの音量を下げたように静まった。私は食べかけの白ごはんとひじきがまだある弁当に蓋をし、持っていた箸を乱雑に弁当箱を包む布製の袋に突っ込み、鞄に閉まった。高橋先生は私が身支度する様子をじっと見ていて、クラスの何人かも私を凝視していた。麻里子と紗奈は私の身支度を控えめに手伝う程度で私に気を遣い必要以上に声をかける事はなかった。高橋先生のもとに行くと、高橋先生の顔色はメイクをしているのに、自分の魅力を落としているように生気を失っていた。高橋先生は廊下を歩きながら、なるべく生徒が周りにいない場所を探したが、学生鞄を持った生徒が昼休みに先生に連れて行かれている光景は好奇な目に晒されるのに十分だった。廊下から通り過ぎる教室を何度か一瞥すると男子や女子の集団が私を見ては何やら噂話を始める様子が伺えて、先生は諦めたように、職員室まで私を連れて行った。そこで先生から、
 「加藤さん、お母さんが大変なことになってね、お父さんがすぐに学校に迎えにくるから、不安だと思うけど、少し待っててね。」
 「え、あ、はい。」
 何一つ整理出来ないまま、返事をしていた。先生に案内された職員室内にある応接間の茶色の革製のソファーに座り、壁に飾られた丸い時計を眺め、父の来訪まで長針を何周も追い続けた。

 父は背広と鞄を片手に今朝セットした髪も乱れて、何歳も老けた様子だった。父は先生に頭を下げていたが、明らかに動揺しており、大人がやるそれに比べるとおぼつかないものだった。校門前に待たせたタクシーで警察病院の遺体安置所へ向かった。タクシーの中では、二人とも何も喋らず、涙を流すこともなかった。実感がまるでなかったのだ。私たちのことを限りない愛情でいつも愛していくれていた母が、まるで家庭に生き甲斐を見出せず、夫との結婚生活にも冷めて不倫に走った挙句、自分の人生に絶望し死んでいく人間のような末路を踏むとは思えなかった。少なくとも私の知る母は、いつも私の将来を楽しみに寄り添い、時には友達のように語り笑い合えたり、失敗も成功も一緒に受け止めてくれる母親だった。父とも、もう高校生の娘がいるというのに、月に一度は二人きりでデートをするのをずっと続けていて、友達に話すと、すごいラブラブなんだねと揶揄われたほどだ。

 警察の方が私たちに配慮しながらも淡々と経緯を説明していたが、私と父は断片的にしか聞き取れなかった。男の身元は私たちの家の最寄駅にあるイタリアンレストランを経営している34歳の男だった。男の妻と見られる女性も来ており、私たちはお辞儀をかろうじて交わしたもののどこでどう二人が繋がっていたのかという確認の会話をする余裕もなかった。母はこの男と自殺する前に、透明のポーチに自分の免許証と男の免許証を入れて海辺のベンチに置き、睡眠薬を多分に含んだ後に、海に入水したと推測されている。母のスマホを調べても、この男の連絡先はどこにも入っておらず、SNSでこの男と繋がってる様子もなかった。ただ警察の調べで、何度か母はこの男が経営しているレストランにランチを食べに行ったことが確認されている。私と父は母がその店に行ったことがあると知らなかったし、家族で行ったこともなかった。私が一度、母と買い物をして駅前を歩いてるときに、
 「ここのレストラン、美味しそうだよね。」
 「そうね。今度、パパと三人で来ようか。」
 なんて小さな会話を数ヶ月前にした程度だった。結局、それ以来、このレストランは私たちの会話には出なかったが、そんなことはよくあることの一つだと思っていた。母は、あの時既に、レストランに行ったことがあり、私たちとは別の物語を進めていたのだろうと思うと、立つ力を奪われたように立ちくらみがした。

 父は全体的に見ればそれとなく機能しているが、所々に支障がある壊れかけの車のような振る舞いをするようになった。朝、髭を剃るのを忘れたり、ノーネクタイで出勤しそうになることはまだ可愛い方で、テレビを見ながら、突然泣き出したり、今まで全く飲まなかったお酒やタバコを吸うようになった。やがて家は乱雑になり、私は学校帰りには母の代わりに家事を懸命にこなすようになっていた。母のいない生活の穴を埋める行為は母の痕跡を生々しく辿る行為でもあり、私も時より、涙を流すようになっていた。学校では、担任の先生と一部の教員だけが今回のことを知っており、私はいつも通りに登校して、いつも通りに友達と会話し勉強していた。そして家に帰ると、自分でも何をしていたか思い出せない時間があった。この時、まるで私の精神は私の身体から完全に分離され、雲のように一定の形を持たず漂い、大きな風が吹けば、跡形もなく消えてしまいそうな柔なものになっていた。
 私は自分の部屋のベッドに座り、勉強机にある鏡を手に取り、自分の顔をまじまじと見た。ここ最近の睡眠不足とストレスのせいだろうか、おでこ辺りにはポツポツとニキビができていた。しかし、それ以外は特に顔色も悪くなく、健康的な肌で頬を撫でると、母の肌のようにつるりと滑った。私はなんだか自分の顔が気味悪く感じ始めた。学校や外では群れの中で違和感無く生活を送ることが出来ているが、私の心は壊れている。悲しいのに違和感なく微笑むことが出来ている私の力はどこから来ているんだろうか。そんなことを鏡を見ながらじっと考えていた。私は鏡を机に置き、徐に眉の上にできたニキビを両手の人差し指で挟み潰した。つねったような痛みと共に白濁した液体が飛び出し、鏡に掛かった。身体にある不純物を痛みと共に排出する行為は私に妙な快楽をもたらした。ティッシュで鏡を拭いて額にできたニキビ跡にティッシュを押し当てた。少し経ってティッシュを見ると血が滲んでいた。私にも赤い血がまだ全身を流れているんだという安堵感が、母が亡くなってから初めて私に幸福感をもたらした。
 その後、軽く腕をつねったり、眉毛を抜いてみたりしても先ほど得たような快楽を得る事はできず、私はむず痒い気持ちに襲われた。机にあった縦型のペンケースにあるシャーペンを取り出して、左手の親指と人差し指の付け根を閉じているときにできる膨らみを何度もゆっくりと突いてみた。さほど痛みもないが、小さな赤い円がぽつらぽつらとできていた。私は血が見たかったので今度は強めに刺したが、シャーペンでは、なかなか飛び出さず痛みだけが増したので、今度はボールペンに切り替えて、もう一度同じような強さで刺した。すると小籠包に穴を開けたように血が飛び出した。私は急いで口で塞いで流血してくる血を舐めた。生々しい生を彷彿とする血を味わい飲むことで、私は正しい人間性を自分の中に取り入れていることが出来ているような気がして嬉しかった。
 リビングに行って、テレビをつけるだけでマネキンのように座りタバコを吸っている父の後ろを通り、冷蔵庫からヤクルトを取り出して、自分の部屋に戻る。一口で飲みきり、側面を読むと、容量は65mlと書かれていた。私は机の引き出しを開けて、カッターを取り出す。封筒でも開けるかのようにスライドし刃を出して左手の中指の先端を切りつけた。そのまま中指をヤクルトの飲み口に突っ込み床に座り脱力していた。針をさしたような痛みが続いていたがそれも心地よかった。痛覚がはっきりと私に意識をもたらしてくれるようで、他人のように思えていた自分が自傷行為によって自分を取り戻せた感覚があった。
 爪の先が浸る感覚があり、指を上に上げると第一関節の真ん中から先が真っ赤に染まっていた。私は中指を咥えて血を舐めた。血は温かく鉄の臭いが鼻腔を覆うように広がり纏わりついた。指を再び、ヤクルトに戻し、舌で口の中にある血を舐めるとたちまち唾液が分泌して、錆びたような血液が消滅していきいつもの無感覚な口の状態へたちまち戻っていった。右手の親指と人差し指の間に左手の中指を挟み、もっと血が出るようにと絞った。想定した勢いよりも微弱な勢いで血は出たが、容器の8割程度に血が溜まった所で指を取り出し、ティッシュを使って止血した。ティッシュを何重にも巻いて、ヘアゴムで第二関節辺りに結び固定するとてるてる坊主みたいになった。
 私は、血でいっぱいになったヤクルトをじっくり味わうように飲んだ。血液は水のように流れず喉に引っかかり、鉄の匂いと生臭さから反射的に逆流を促すように一瞬嗚咽しそうになったが、堪えて最後まで飲み干した。ゆっくり息を吐き、ベッドに寝転ぶと、たまらない高揚感があった。疑いから晴れた正常な身体の成分こうして自分に取り入れることで、不具合が起きていた自分がアップデートされていくようで嬉しかった。明日にでも、父に人間の壊れた心は自分の肉体を持って修繕できるのだと教えてあげようと、優しい気持ちのまま眠りに落ちた。

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