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肉体と頭の中、どちらの裸を見せることが恥ずかしいか?

 その一節を見つけて以来、頭の片隅にこびりついてしまったセリフがある。ストリッパーと小説家の会話である。
 小説家がストリッパーに言う。
「男たちに裸を見せて、恥ずかしいと思わないの?」
 小説家の問いかけに対して、踊り子のストリッパーが応える。
「服を脱いで見せる裸より、裸の頭の中を人に見せる方が、私は恥ずかしいと思う」
 小説家は黙ってしまった。

 多分、学生時代に読んだハードボイルドの一節だと思う。それがずっと頭の片隅に残っていて、事あるごとに顔をのぞかせる。そして何度も、その意味をかみしめる。
 もう一つ、私の頭の片隅にこびりついている一節がある。
「心の動いた瞬間を、覚えておけ」

 この手法は、日常的にnoteを書くときに使っている。心が動いた瞬間の前後を活写することで、ワンシーンを文章で表現すると、一つのコラムが完成する。

 さらに、もう一つ。最近、ひっかかっている一文。

「茶道の要義は、不完全なものを崇拝することにある」

 これは、岡倉覚三が書いた「茶の本」の一節である。覚三は、岡倉天心の本名である。

 茶道教室のおっしょさんには、しょっちゅう、「お点前は、細かいところが大切!」といわれている。お点前は完璧を志す。しかし、そのお道具や露地については、「不完全」なものがおもしろいとされる。その典型的なものが古田織部の「沓茶碗」。本来、抹茶茶碗の形は綺麗な円を基本とする。しかし、古田織部の沓茶碗は、ひしゃげた楕円形である。あと、いびつに歪んだお皿とか。また、利休がお茶会に出向いたときに、あまりに綺麗に露地が掃除されていたことに、不満を抱いたとか。

「この露地に、数枚の枯葉が落ちていれば完璧なのに」

 と……。風情は不完全を要とするようだ。人の手が加わった自然とでもいうのだろうか。その塩梅が難しい。

 書くことは自分の頭の中を裸にして恥を晒し、そして、心は縁によって変幻自在に形を変え、決して「真円」になることはない。一方面から見れば真円に見えることがあっても、他方面から見れば、歪んだままであることが多い。その歪みが、味わいになる。人というのは、誠に我儘なもので、あれがいいといえば、いや、こちらが美しい。これがうまいといえば、こちらのほうが上品。とまあ、なんとでも言ってくれ、と言いたくなる。さらに、美意識も時代と共に変遷する。味覚においても、しかりである。変わらないものは、昨日の茶室の掛け軸。

「月明千古秋」

 いつの時代であっても、秋の月明かりは、秋の月明かり。さらには、

「松樹千年翠」

 これも、不変を尊ぶ禅語。完全を尊びながら、不完全がいいと言う。わきゃわからない、といいたくなる。理不尽、それが人生さ、とでもいいたいのか。フランスの作家、カミュの「シーシュポスの神話」を思い出す。「不条理の条理」である。

 こうして思っていることを文章にすると、裸の頭の中は、整理がつかない恥ずかしいままである。オチはどうなっている? と叱られそうだが、これが私の「裸の頭の中」である。

 今の私の文章の目標は「品のある文章」である。しかし、これはまだまだ、叶えられそうに無い。


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