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俵屋宗達と、王朝文化復興を謳い幕府に抗った、後水尾天皇との関係。鍵を握る皇后和子

 朝廷内における女性は、おおっぴらにお茶を嗜んだのか。もし、女性もお茶会に参加することを許されていたなら、面白い。歌会に女性も参加したのだろうから、歌会の一部と言われるお茶会にも参加出来たと推測できる。
 金森宗和は「姫宗和」と言われるほどだから、お姫様も参加したと考えて無理はないだろう。さらに時の天皇の後西天皇の庇護を受け「姫宗和」は朝廷内での茶の湯の指導的立場を確実な物にして行った。後西天皇は、「王朝文化復興」を掲げて幕府に抗った後水尾天皇の第七人目の皇子である。祖父は後陽成天皇。そして後水尾天皇は譲位してのち、その後50年余りにわたって院政を敷く。その皇后の和子は、第二代徳川幕府の秀忠の娘である。その立場を使って、何かと武家と宮中の裏で、暗躍したような気がしないでもない。
 江戸時代初期、こうして朝廷内では幕府の武家文化に抗うために「姫宗和」と言われる雅で優雅な茶の湯である金森宗和の茶の湯が勢力を広げていったと考えてもおかしくない。資料不足で推測の域を出ないが。

 さらにもう一点。俵屋宗達の作品に多くの「扇面散屏風」が残されていることである。確かな落款のあるものはほとんどないが、多くの「扇面散屏風」が、彼の作品と認められて残っている。そこには、賛という和歌が添えられている。筆は本阿弥光悦であったり京の豪商、角倉素庵であったりする。
 宗達が確かな落款を作品に記すことなく作品を沢山描いている時代に、宮中では土佐派の絵がもてはやされていた。伝統のある大和絵に和歌が認められているものである。
 そのことを考え合わせると、よく言われる「宗達の作品は財力のある商人や公家や武士にによってもてはやされた」と言われることが多いのだが、豪商や武士に日本の古典文学の和歌の賛が認められた大和絵に興味を抱いたであろうか。それよりは豪快な動物や龍や獅子、さらに雷神風神といった一目でわかる迫力のあるものに興味を抱いたのではないだろうか。
 よって、俵屋宗達の絵が大正時代まで目立たなかったのは、宮中や公家の間で静かに残されていたからではないだろうか。それが、明治になって徐々に下々に流れ出てきたことで、俵屋宗達の存在が知られるようになったと考えることはできないか。そう考えると、大正時代に開かれた「大日本美術協会」の第何回だかの展覧会で、いきなり俵屋宗達の名前と作品が注目されるようになったという経緯が、理解できる気もする。

 俵屋宗達が活動した江戸時代初期、茶道は大きく分けて三つの流れに分かれる。一つの流れは、幕府が茶の湯の指南役として認めた小堀遠州の流派の「大名茶」。二つ目の流れは「姫宗和」で代表される宮中を舞台とした流れ。そして三つ目は、商人や町衆を主体として隆盛を誇る千利休の流れを継ぐ「表千家」「裏千家」「武者小路家」の流れである。それらがお互いに色合いを強くして、時代にもてはやされるようになって行った、と考えらる。
 茶の湯の三つの流れに対して絵画の流れもやはり、宮中でもてはやされた「土佐派」、武家にもてはやされた「狩野派」、そして三つ目は豪商と宮中を中心に、あまり目立つことはないがその存在を認められていた絵屋の「俵屋」である。そのように考えてしまってもいいのでは……。
 とりあえず、これで物語の屋台骨のようなものができたとしよう。さて、次の作業であるが、どうしよう。

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