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私は、大茶人……?

 昨日は、「盆略点前」のお点前をさせてもらった。何一つ、上手くできなかった。
 一通り、お点前とお客の役を入れ替えてのお稽古が終わった。その後、素直に疑問に思った床の間について、お聞きした。
「お軸は何とお読みすればいいのでしょうか。文字の上に、〇ですよね。最初の文字は、月。次の字は、藤にも見えますが。その下は不要の不。その下の二文字は、わかりません」
 視力検査のような言い草だが。
「月の字の下は、落です。不の下は離れるで、その下は、天。ですから、月は落ちても天から離れず、です。つまり、月は昇っては落ちを繰り返し、見えなくなっても、また現れる。しかも形もどんどん変わります。しかし、それを支えている天からは決して離れることはありません、と言う意味です。その流れから行くと当然の如く、一番上の○は、月ですよね」

 この言葉の本当のいわれは、以下の通りである。
 以下は『臨済宗黄檗宗 公式サイト 臨黄ネット』よりの抜粋。
(※前略)「月落不離天(月落ちて天を離れず)」という禅語があります。これは『五灯会元』という中国禅僧の伝記といえる書物の巻16、福厳守初(ふくごん・しゅしょ)禅師という方の項に「悟り(ほとけ)はどこから得られるのか」という福厳禅師からの弟子への問いに、自身でこの言葉を答えられたというお話が出典になっております。
 月は西に沈み地へと落ちる。けれどそれは天を離れたわけではなく、ただ目に見える範囲から外れただけに過ぎません。月自身は変わらず天にあります。悟りもなにか特別な場所にあるものではなくて、どこもかしこも悟りと離れない、つまり「月も自分もあらゆるところがほとけであるぞ、気づくのだぞ」と弟子を案内している言葉がこの「月落不離天」です。
(※後略)
 
 こうして振り返ると、師匠の「しつらえ」と「おもてなし」が凝縮された床の間だ、と強く感じられる。まさに『茶禅一味』、その物の掛け軸である。

「おおっ。いいですね」
「下の右には、ウサギの置物」
「ウサギは、香合ですか」
「そうです。お香合です」
「月を眺めている、ウサギですね」
「花は。なんでしょうか。名前はわかりませんが、葉が紅葉してますね。なるほど、ここは秋ですね」
「そうですね」
「うーん。いい。いいですね」
 と感心しながら、「盆略点前」の初めてのお点前の稽古が終了した。
 私のお稽古の様子を側で見ていた師匠が、終了間際、私に、初めてのお点前の感想を聞いてきた。
「蜻蛉さん。はじめてのお点前は、どうでしたか?」
「うーん。自分ではわかりませんが、お茶を待っているお客から見たらきっと、決して美味しそうなお茶には見えなかった、と思います」
「うーん(微笑みながら)。蜻蛉さんは、見た目は大茶人(だいちゃじん)ですね」
「見た目ですか?」
「そう、大茶人です」
「見た目だけでも、ありがとうございます」
 茶室を出て、周囲にいた華やかな着物姿の姉弟子たちに、
「今日は、先生にお褒めの言葉をいただきました。見た目は大茶人ですねと。確かに着物と袴の姿といい、お腹の出具合からしても、まさに大茶人ですね(笑い)」
 すると姉弟子の一人が、
「私も形から入るタイプです」
 と微笑みながら、応えてくれた。
 
 しかし、お稽古帰りの道すがら、つらつらと考えていると、先生の一言は私の「着物と袴の姿」について語ったのではないと思えて来た。
 つまり、
『着物も袴も決してきれいに着こなしてはいない。ましてや、作法や所作は全くなっていない。けれども、私が床の間の軸のことを聞いたり、お香合のウサギやお花のことを聞いたりしていること。そして、説明を聞いて、さらにそこに〝しつらえ〟としての〝秋〟を感じてくれていること。それらのことは、茶事の奥底にある最も重要なことに通じている。つまり主人と客との間の心のやり取りを、習うまでもなく、また意味を理解するでもなく、いつのまにか滲み出て来て、自然に実践している。茶事の主人の気持ちを一生懸命理解しようとする、その行為が、すでに茶事の奥義に触れていますね』

 と言ったのだと、思えてきた。穿(うが)ち過ぎだろうか。しかし、そうとしか思えない。師匠が、私のチグハグな着物の着こなしを褒めてそんなことをいう訳がない。ましてや、稽古の最中に袴が落ちそうになって、姉弟子に直してもらったくらいだし。

 そう思うと、『大茶人』という刺激的な言葉を使って、大切なことを教えてくれたのだと思う。

 しかし、こうも理解出ることに気付いた。つまり、掛け軸のことや香合のこと、生けてある花のことを通して、床の間の『しつらえ』などを、立場もわきまえず堂々と質問したこと。  
 さらには、
「私の点てたお茶は客から見て、決して美味しそうには見えないと思います」
 といった言動。これらは確かに『口先だけの大茶人』の言動であろう。その証拠に、その実態は『お点前』も『袱紗捌き(ふくささばき)』も、歩き方も何一つ満足に出来ていない。言葉通り口先だけの『大茶人』ということだったのだろう、と。
 やはり「態度がでかい」と注意されただけなのか。まあ、師匠は微笑みながら言ってくれていたから、褒めてくれたのだと解釈することにした。
 無知なので、知りたいと思っただけなのだが……。

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