「鹿鳴館」と中国最古の詩集「詩経」に納められている詩
日比谷公園の東側、帝国ホテルの南隣り辺りに「鹿鳴館」があった。明治時代の日本の外交の最前線だった。その名前となっている「鹿鳴」の出典をご存知の方は少ないと思う。
たまたま漢詩の解説本を読んでいて、偶然に知った。中国の最古の詩集と言われる「詩経」に「鹿鳴」と言う漢詩が載せられていた。詩の解説に、
「鹿が鳴く様をもって、大切なお客様を賑やかな宴席で歓待することを表している。鹿鳴館の名は、この詩に由来する」
と、大要、この様に説明されていた。
長年、その名の出典など気に留めたことはなかったが、改めて紹介されると、そう言えば、どうして「鹿が鳴く館と付けられたのだろう」と、当時疑問に思ったことを思い出す。
明治政府は西洋文化の受け皿に漢詩から取った名前を付けたというのも、いかに大名や公家の間で漢詩が重要な教養となっていたかが推察される。
私が漢詩に興味を抱く様になったのは、茶道の濃茶をお稽古する様になってからである。
薄茶のお点前を習っている時、茶道教室の講師の男性に、
「お点前3割、日本の古典文学7割」
と教わった。さらに、お稽古が濃茶に進むと、
「お稽古の時の濃茶のお茶杓の銘は、禅語か漢詩から取ります」
と教わった。早速、禅語を調べたが、あまり興味が湧かない。そこで、作家の浅田次郎先生がそうだった様に漢詩を調べてみた。ある本には、
「漢詩は志しを表し、和歌は感情を表す」
とあった様に思う。浅田先生も漢詩が表さんとする、当時の混乱の中国を生き抜く高級官僚たちの「志し」に心を打たれ、興味を持たれたのだろう。漢詩からは、そんな熱量を感じる。
最近、新しく60歳の新人が会社に入ってきた。先輩として、いろいろ指導しているが、60歳の人間は若い人と違って、それなりに人生観が固まっている。生きて来た世界が違えば、文化、言語の認識の基盤も違って来る。まさに、教養が言語認識の基盤を成していることを強く意識させられている今日この頃である。
そのうち、殴り合いになりそうだ……。しかし、それだけは避けたい。なんとか言論を通して仲良くなりたい。
創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。