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等伯を書き始めた -㉖

 とうとう「長谷川等伯」の小説の冒頭部分を書き始めた。その部分だけでも、安部龍太郎が描いた人物像とは全く違っている。違うように設定したというよりも、全く違う性格の人物に思えたから、そんな主人公の性格を暗示するような冒頭の書き出しになった。そう、「…なった。」と主体的じゃないのは、書き上がると、そうなっていたからだ。どうも、沢山の資料を読み進めて来た中で脳が勝手に、そんなふうにまとめ上げてしまったようなのだ。
 しかし、思い当たる節はある。それは、『沢庵和尚』の長谷川等伯の人物評という文章を目にしてしまったからだろう。それが原因で、大きなバイアスがかかったのだろう。
 今日(日曜日)は朝一番で洗濯をすませてから、何度も「風炉の薄茶点前」の通し稽古をやっていた。何度も自分でお茶を点て、何杯も抹茶の薄茶を飲んだ。ビデオの映像を見ながら、それに沿って手を動かしているのだが、なかなか覚えられない。しかも、ところどころ、帛紗の向きが逆だったり、柄杓の動きが違っていたりする。そのたびにビデオを止めて、細かい動きを確認して次に進む。一回のお点前で10分くらいかかる。それを、何度も繰り返してみる。でも、飽きがこない。
 たとえば柄杓の扱い方。そのための手の動きに、自分で惚れてしまったりする。なるほど、こうすると楽に動かせるのかと新しい発見に出くわす。さらに、水を柄杓で汲むのにも、釜の底からとか、水指の中程からとか、それぞれ意味があるんだ、と感心したりしながら一人で稽古を進めていく。色々気付きがあって飽きないのである。
 お腹が抹茶でいっぱいになると、今度は小説を書くためにパソコンに向かう。で、小説が一段落すると、またお点前の稽古に戻る。そんなことを繰り返しているうちに、一日が過ぎてしまった。
『誰も来ない、何も起きない。なんとも、穏やかな一日だ………』
 と、自分で自分の一日に、感動する。大して変わったことはしていない。子供たちが家にいたころに比べれば、何もしていないに等しい一日である。でも、充実している。
 この充実感が、突然、崩れる日が来るのかも知れない。
 そんな一抹の不安を抱きながら……。

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