雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【21】
リリー・マルレーンは2回目だった。
真由美という名前の子猫は、街角にはいなかった。
だから、真由美に拾われることなく、ひとりでお店に入っていった。
「いらっしゃあい」
真由美がいた。ピースの紫煙がゆらゆらと店内を漂い、甘い香りがした。
「いらっしゃいませ」
ユディトのようなママもいた。
僕はカウンターの奥に座った。
僕以外、お客は誰もいなかった。
「お兄さん、初めてね」
子猫が言った。
ああ、やっぱり。
リリー・マルレーンの魔力も、ユディトの妖力も、僕の記憶を留めることはできなかったのだ。
僕は万に一つの可能性が潰えたことを噛み締めていた。
「うん。初めてだね」
「ひとりで来た一見さんって、久しぶりかも」
子猫のような真由美が言った。
「そうなんだ」
「ここってわかりにくいから。だから、会員制じゃないのに、会員制バーみたいになっているのよね。ね、ママ」
「真由美ちゃんが選り好みしているからじゃないの?」
「それを言うなら、ママでしょ。菩薩のような顔をして、ニコニコ笑いながらばっさり斬るんだから」
「物騒だね」
「さっきもね、ママがお客さん追い出してしまったの」
「真由美ちゃん」
「あ、ごめんなさい。お兄さん、何になさる?」
「そうだね、ウイスキー、水割りで」
「はあい」
ユディトが僕を見ていた。
「何か?」
「あら、ごめんなさい。こんなこと言って気を悪くしないでね」
「何ですか?」
「前に一度、どこかでお会いしてません?」
僕は少し驚いた。
「そうかもしれませんね」
「えー、ママ、それって」
「そんなんじゃないのよ、本当、ただ、なんとなく、お会いしたような気がするの、このお兄さんに」
子猫は僕の前にコースターとグラスを置きながら言った。
「ママがそんな風に言うなら、私も言っちゃうけど」
「なあに、真由美ちゃん」
「このお兄さんが入って来た時、あれ?前に一度会ったことあるかもって思ってたの。嘘じゃないわ…本当よ」
「真由美ちゃん」
子猫とユディトは顔を見合わせた。
「あの」
ふたりは僕を見た。
「おかわり」
「あら、ごめんなさい」
ユディトがグラスを取って、水割りを作って僕の前に置いた。
「お兄さん」子猫が僕の前に立って言った。
「なんだい?」
「今日初めて?」
「ううん」僕は首を横に振った。
「えー?」子猫。
「やっぱり」ユディト。
僕は水割りを飲んだ。
「ママ」
「真由美ちゃん」
「ふたりとも顔を忘れてるなんておかしくない?」
「そうね」
「あのね、お兄さん。私も、ううん、私なんか全然。ママはね、一度会った人の顔も名前も完全に覚えてる人なの。なんて言ったっけ。そう、ロボットみたいなの」
「ロボット?」
「そんな感じの、すごいの、なんて言ったっけ?コン…コン…」
「コンピュータ?」
「そう、それ、コンピュータ?カンピュータ?全部記憶してるの」
「真由美ちゃん、言い過ぎよ」
「そんなことないわ。そのママが、お兄さんのことは覚えてないなんて、私、そんな人、初めて見た」
「そんなんだ」
ユディトが僕を見ずに言った。
「朧げなのよ、お兄さんのこと。会ったことがあるなら、鮮明に覚えているの。たとえ昔のことでも。一度しか会ったことがない人でも。それが私のたったひとつの自慢なの」
「ママ」子猫がママの肩にそっと手を置いた。
僕は、無理もないことを告げようとして、思い止まった。
言ったところで、何も変わらない。
却って不審がられてしまう。
折角、居心地良いお店に出逢ったのだから、出入り禁止になるのは避けたかった。
黙っていようと思った。
「私はママ程物覚えは良くないけど、それでも、ひとつだけ」
子猫はそう言うとカウンターを回り込んで、僕の近くに来た。
「匂いだけは覚えているの」
子猫は僕の首筋に顔を近づけて、匂いを嗅ぎはじめた。
「覚えてる、この匂い」
「真由美ちゃん」
「お兄さんの匂い、私、覚えてる」
「そうなんだ」僕は言った。
「なんでだろう…どうして思い出せないんだろう…」
リリー・マルレーンの曲が終わって、レコードが止まった。
僕は言った。
「おかわり」
ユディトが待ち構えていた。空のグラスと水割りのグラスをさっと交換した。
「リリー・マルレーンって良い曲ですね」
ユディトと子猫は、目を見開いて、顔を合わせた。
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