見出し画像

偉大にして古き吟遊詩人組合の年代記(鍵盤楽器音楽の歴史、第122回)

1321年9月14日、パリの宮廷楽士のパリゼは、37人のパリ在住の楽師の署名と共に11項目からなる規約をパリ奉行に提出しました。これがパリの吟遊詩人組合 Ménestrandise の始まりです。

中世ヨーロッパのいわゆる「吟遊詩人」と呼ばれる職業は大きく二つに分けられます。

一つはトルバドゥールトルヴェール等と呼ばれる遍歴の宮廷詩人で、各地の宮廷を訪い、雅な恋愛歌や武勲歌を披露した人々です。彼らは貴族の庇護を受け、あるいは自らが騎士などの貴族階級出身である者も多く、高い社会的地位を認められていました。

もう一つはメネストレルジョングルールと呼ばれる下層階級の楽師たちです。彼らの主な生業は楽器の演奏でしたが、曲芸師や見世物師、動物使いなど様々な芸を職業とする人々の総称でもあり、「旅芸人」と呼ぶほうが適当かもしれません。彼らは教会から敵視されており、ミサに与ることが許されず、一般の職業ギルドからも排斥されていたため、流浪を余儀なくされる賤民身分でした。

画像2

Smithfield Decretals, BL Royal 10 E IV, f. 58r.

彼らは胡乱な輩と見られつつも、都市の行事には不可欠な存在であり、やがて定期的な職を得て都市に定住する者も現れました。教会も態度を軟化させ、彼らも市民の一員と認められるようになります。

しかしながら、定住生活をするようになったからといって、生活が安定するとは限りません。相変わらず都市を転々としている非定住型の同業者に人気を攫われる恐れがありますし、都市内での競争や揉め事も避けられません。そして彼らは依然として被差別民であり、運良く有力なパトロンの庇護を得られでもしなければ、社会的に脆弱な立場にありました。

かくして彼ら楽師たちも堅気の職人並みにギルドを結成し、職業上の掟を定め、為政者に法的な権利を認めさせるようになるのです。

パリの吟遊詩人組合は市内の営業を独占する権利を得ました。つまり教会のオルガニストなどの一部例外を除いて、組合に所属しない者が演奏によって報酬を得ることを禁じたのです。これは極めて強力な特権といえます。

パリの組合は繁栄し、1330年にはサン=マルタン通りに貧しい音楽家のためのホスピタルを建てる地所を購入しています。建物は1335年に完成し聖ジュリアンと聖ジュネストに捧げられました。組合は「吟遊詩人たちの聖ジュリアン同胞団 Confrérie of St. Julien des Ménétriers」を名乗り、その代表者には「吟遊詩人の王 Roi des Ménétriers」の称号が与えられました。

画像3

Église St. Julien des Ménestriers, 1779.

1407年に大道芸人と曲芸師のギルドが分離独立しました。むしろそれまで一緒だったことのほうが驚きですが、当初の規約では伝統に則って彼らも吟遊詩人組合の管轄だったのです。組合はより音楽に特化した組織となり、改定された規約が「狂気王」シャルル6世に受理されました。

1514年には、組合の代表者の称号が「王国の吟遊詩人の王 Roi des Ménestrels du royaume」に変っています。これはパリの組合の権威がフランス王国全土に及んだことを意味しています。16世紀にはフランスの主要都市に「聖ジュリアン同胞団」の支部があり、音楽家を統括していました。

これは宮廷楽士とても例外ではなく、ルイ13世が1626年に創設した宮廷常任弦楽団、通称「王の24のヴィオロン」のメンバーも吟遊詩人組合の所属でした。

画像4

“Joueur de violon du roi,” Nicolas Arnoult, 1688.

その一人であるルイ・コンスタンティン(1585-1687)は優れたヴァイオリニストにして、1624年から1655年まで吟遊詩人組合の「王」も務めています。そのころの吟遊詩人組合代表の称号は「楽器奏者の王 Roi des joueurs d’instruments」あるいは「ヴィオロンの王 Roi des violons」

画像5

Louis Constantin, "La Pacifique."

コンスタンティンの後を継いだのは、同じく24のヴィオロンのメンバーであるギヨーム・デュマノワール(1615-1697)。彼は1657年から1668年まで「王」を務めました。

1658年の組合の規約では、公共の場で演奏が許されるのは「王」の認めた組合員だけであり、資格を得るには師匠の元で4年間の見習いを務め、組合費を師匠と「王」に納めなければならないとされています。

しかしこの如何にも中世的なギルドが、もはや時代遅れな組織であることは明らかでした。

デュマノワールの任期は困難に満ちたものとなりました。1661年には舞踏家たちが吟遊詩人組合を離反して、独自の組織「王立ダンスアカデミーAcadémie Royale de Danse」を創設する事態となります。デュマノワールはこれに対して訴訟を起こし、1664年には『音楽と舞踏の結婚 Le mariage de la musique avec la dance』と題する論文を発行して、音楽と舞踏が不可分であることを主張しています。

画像6

1668年に「王」を襲名したのは、息子のギヨーム・ミシェル・デュマノワール(1656-1714)です。しかしこのとき彼はわずか12才ということになりますが。この紛らわしい名前の父子は文献上でしばしば混同されており、どうも確かなことがわかりません。

ともあれ吟遊詩人組合は舞踏家達との争いを継続すると共に、さらに後のオペラ座である王立音楽アカデミーをも訴えます。しかしその支配者であるリュリと争うのはあまりにも無謀でした。1673年に吟遊詩人組合は敗訴し、公共における音楽の独占権を失います。デュマノワール2世は1679年にパリを去り、マドリッドの宮廷に仕えているので、その後はおそらく父のデュマノワールが再び「王」を務めたのだと思われます。

1682年に王立ダンスアカデミーがダンス指導の独占権を獲得します。デュマノワールはなおも抗議を続けましたが、結局1691年に吟遊詩人組合とダンスアカデミーに同等の権利を与えるという裁定が下ります。しかし相次ぐ訴訟に疲れ果てたデュマノワールは「王」の地位と収入を放棄し、組合の運営は4人の幹部に委任されました。

吟遊詩人組合が次に矛先を向けたのは、当時数を増やしていたクラヴサン教師たちです。1693年6月16日に、組合はすべてのクラヴサン奏者の加盟を義務付けることを決定し、拒否したものは投獄されました。

同年7月10日、フランス最高位の鍵盤奏者である4人の「王のオルガニスト」たちが、これに対する抗議文を上奏します。すなわちルベーグ 、ニヴェール、ビュテルヌ、そしてクープランが署名しています(しかし不可解なことに、このときクープランの前任のトムランはまだ存命で、クープランがその地位を得るのは1693年12月26日のことなのですが)。そして2年間の法廷闘争の結果、クラヴサン奏者たちが勝訴しました。


…といった経緯がクープランの第11オルドルの《偉大にして古き吟遊詩人組合の年代記 Les fastes de la grande et ancienne Mxnxstrxndxsx》の背景としてあるわけです。

当時の音楽家には、就中クラヴサン奏者にとっては、吟遊詩人組合は既得権益を貪る忌むべき過去の亡霊だったのでしょう。大げさな題名も、わざとらしい伏せ字も(Mxnxstrxndxsx=Ménestrandise)クープランの悪意のこもった皮肉に他なりません。

この「年代記」は5楽章構成のかなり大規模な組曲内組曲となっています。

第1幕《吟遊詩人組合の名士と幹部たち Les Notables, et Jurés - Mxnxstrxndxurs》

画像7

第1幕はハ長調の陽気な行進曲、喜劇の始まり。戯画化された尊大さをもって吟遊詩人組合のお偉方を描きます。

第2幕《ヴィエル弾きと乞食 Les Viéleux, et les Gueux》

画像8

同じテーマがハ短調に移され、ヴィエル(ハーディガーディ)を模したドローンの上でくたびれた風に奏されます。

ヴィエルは粗野な楽器の代表であり、田園風の曲ではロマンティックなものとして扱われますが、ここで描かれているのは物乞いに混じる、おそらくは盲たヴィエル弾きの姿です。

この明暗の描き分けは吟遊詩人組合の貧富の差を風刺したものでしょうか。どうもクープランにそのような社会主義的な思想は期待できません。単に吟遊詩人組合など所詮は乞食楽師の集まりという侮蔑を表したものと思われます。彼に貧者への憐れみが不足しているからといって批難するには当たりません、当時貧困や心身障害は一般に嘲笑の対象でした。

画像11

"Le Joueur de vielle ou Le Vielleur," Georges de La Tour.

第3幕《楽師と曲芸師と大道芸人、熊と猿と共に Les Jongleurs, Sauteurset Saltimbanques: avec les Ours, et les Singes》

画像9

引き続き単調なヴィエルの音を背景に、芸人たちが登場。上述の通り、曲芸師と大道芸人のギルドは吟遊詩人組合から早くも1407年に分かれているのですが、クープランはその歴史を踏まえているようです。あるいは無視しているのか。

第4幕《廃兵院、または偉大なる吟遊詩人組合に仕える不具者達 Les Invalides: ou gens Estropiés au service de la grande Mxnxstrxndxsx》

画像10

ヴィエルの音が止み、傷痍軍人たちが現れます。

白い音符だけで書かれた特異な譜面、上声部には Les Disloqués(脱臼)、下声部には Les Boiteux(足萎え)の指示があります。

腕を脱臼した者、脚を失った者。オクターヴで刻まれるバスは、松葉杖をついて歩く重い足取りを表します。ここでおそらくクープランは彼らの惨めさを描こうとしているのでしょうが、失敗しており、その音楽は崇高ですらあります。

しかし彼らの存在は何を意味するのでしょう、吟遊詩人組合には不具者がつきものだったのでしょうか。最初に行った事業が救貧院の設立という組合ですし、元々アウトサイダーたちの寄合として始まった組織のこと、社会のはみ出し者には優しかったのかもしれません。

第5幕《酔っ払いと猿と熊の引き起こした無秩序と潰走 Désordre, et déroute de toute la troupe: causés par les Yvrognes, les Singes, et les Ours》

画像12
画像13

嵐のような暴走によってこの年代記は幕を閉じます。2枚目の楽譜の中ほどあたりに Les béquilles (松葉杖) の文字があり、先程の人物も巻き込まれていることがわかります。しかしこれのどこが年代記なのでしょうか。

さて、吟遊詩人組合のその後はというと、デュマノワールが1697年に亡くなった後も吟遊詩人組合の「王」の座は空位のままとなり、組合は衰退の一途を辿ります。しかし18世紀半ばになっても、この時代錯誤のギルドはまだ一応存在していました。

そこにイタリア出身のヴァイオリニスト、ジャン=ピエール・ギニョン(1702-1774)が、吟遊詩人組合の復興を目論んで、1741年に半世紀ぶりの「ヴィオロンの王」となります。

Jean-Pierre Guignon.

しかし1750年5月30日の法令により、クラヴサン奏者、オルガニスト、及びその他のまっとうな音楽家たちは、吟遊詩人組合の権威から解放されることになります。

それでも組合は存続を許されましたが、その代表者の称号は「吟遊詩人と高低の楽器奏者とオーボエとダンスの師匠たちの王にして師匠 Roi et maître des ménétriers, joueurs d'instruments tant haut que bas, et hautbois, et communauté des maîtres à danser」というものになります。

なおもギニョン自身は限定的に「ヴィオロンの王」の称号を用いる権利を有していましたが、これも1773年に終了します。最後の「王」はこれをもって辞任し、吟遊詩人組合は最終的に1776年2月のギルド制の解体と共に終りを迎えました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?