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『ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集』(158)
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https://collections.library.yale.edu/catalog/10991080
ヴォイニッチ写本で有名なイェール大学バイネキ稀覯書図書館所蔵の『ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集』は、1720年1月22日、当時9歳2ヶ月であったヨハン・ゼバスティアン・バッハの長男、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-1784)の教育のために書き始められました。
見返しには当のW.F.バッハのサインがあります。
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まずは楽譜の読み方から。ハ音記号で4種類、ヘ音記号も3種類の位置があるので大変です。しかし父バッハの徒弟時代にはさらにドイツ式オルガン・タブラチュアが必修でしたから、今の子は楽でいいとでも思っていたでしょうか。
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次に装飾音、しかし左下を見るに何故か未完成で放棄されたようです。
これはダングルベールのクラヴサン曲集の装飾音表に基づくものといわれていますが、単純に写したというわけでもなく、モルデント(パンセ)の書き方や cadence という用語の意味など結構違います。
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そして運指例《I. N. J. Applicatio》BWV 994。バッハは親指を潜らせて音階をつなぐ現代的な運指法を編み出したと言われていますが、しかしながらここで説明されているのは親指を潜らせない飽くまで伝統的な運指法です。
3434で音階を上っていくのは現代のピアノ奏者にはショッキングでしょう。
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もう一つ、この曲集に収録の《プレアンブルム ヘ長調》BWV927 にも運指が書かれています。しかしこれはアルペジオ的な作品で長い音階が出てこないので、結局バッハが新しい運指法を用いていたのかは良く分かりません。
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この曲集は62曲の作品を収録し、分けても『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』と『インヴェンションとシンフォニア』の初期稿が含まれていることが重視されますが、とりあえずそういう大変なものは置いておいて、《メヌエット ト長調》BWV 841 を見てみましょう。
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下手くそですね。どう見てもJ.S.バッハの手跡ではありません。そして他にこのノートに書き込む人間と言えば、ヴィルヘルム・フリーデマンしか居ないでしょう。9歳だとすればかなり頑張っているといえます。
ちなみにこの曲は『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』(1722年の1冊目)にも収録されており、こちらは後妻のアンナ・マグダレーナの筆。
ヴィルヘルム・フリーデマンの生母のマリア・バルバラは、1720年の夏にJ.S.バッハがケーテン候の供をして温泉保養地カールスバートに旅行中に急死し、知らせを受け取ることもなく彼が帰宅したときには、既に埋葬が済んでいたといいます。
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D-B Mus.ms. Bach P 224
https://www.bach-digital.de/receive/BachDigitalSource_source_00001135
続けて《メヌエット ト短調》BWV 842 が書かれます。
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ますます汚い譜面ですが、終盤だけは妙に手慣れた筆跡です。クレフの書き方も違います。
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この最後の部分はおそらくJ.S.バッハの筆で、ヴィルヘルム・フリーデマンはここで父にバトンタッチしたものと思われます。何故最後まで書かなかったのか。
つまりこれは写譜ではなく作曲をしていたのでしょう。幼いヴィルヘルム・フリーデマンは良い感じのサビを書けたものの、そこで詰まってしまい、曲を閉じることができず投げ出してしまった、それで父が手を貸したのでは。
9歳でこの出来栄えなら天才です。実際彼は天才でした、生活力の無さが致命的でしたが。とすれば先のト長調のメヌエットも彼の作品のように思われてきます。アンナ・マグダレーナはまだ馴れない継子の作品を自分の音楽帳に写したのではないでしょうか。しかし何故か1冊目の彼女の音楽帳はそのページを最後に大部分が欠損しています。
次の《メヌエット ト長調》BWV 843 は最初から最後までJ.S.バッハの筆です。お手本を見せてやろうということでしょう。流石に貫禄が違うというか、全てにおいて別次元の出来ですが、これはむしろ大人げないというべき。
しかも最後にはブランデンブルク協奏曲でも使われなかった最低音GGが現れます。作曲時期と音域だけからみれば、これが最もミートケのチェンバロにふさわしい曲ということになるわけですが。
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