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ソーシャル・ディスタンスが人間関係に与える影響

 新しい生活様式、特にソーシャル・ディスタンスという言葉が叫ばれるようになってきましたが、このことで人間関係が希薄になってしまうのではないかということを指摘する方々も出てきました。

 先日作家の重松清さんが読売新聞への寄稿をされており、その中で新しい生活様式の中で小説が果たせる役割は何か、特にソーシャル・ディスタンスが必要とされる中で人間関係や家族関係の変化が生じていくにつれて、小説における人間関係の描写も当然変化していくことが予想されることを指摘されていました。

 重松さんは特に、これまで家族など親密な関係においては、直接の触れ合いが当然愛情と結びついてきましたが、「大切な関係だからこそ、距離が必要になる」という状態が生まれてきたこと、その中で愛情をどのように伝えていくかが問われるとおっしゃっていました。

 ニュースなどでも、老人ホーム等で家族の面会を施設側が感染症拡大防止の観点からお断りしているケースがあり、そういった状態が続くと、入所者側が家族に見捨てられたと孤独感を募らせることにより、抑うつ的になったり、認知症が進んだりするような場合も見受けられるとの報道を見ました。

 このように、物理的距離を保たなければならないことが、心理的な距離に影響を及ぼし、結果として関係性が希薄になるのではないかという問題は、確かにそうかもしれませんが、私は必ずしも希薄にはならないのではないかと思います。むしろ、今問われているのは、これまでの日常でどれだけの関係性を築けていたか、その点ではないでしょうか。

 例えば、重松さんの言うような「大切な関係だからこそ、距離が必要になる」というようなケースとして、私は仕事上医療機関の関係者の知り合いもたくさんいるのですが、感染が拡大している場面で医療現場で働く医師の中には、自宅に戻らずに敢えて病院の当直室で寝泊まりするという生活に切り替えたという方もいたと聞きます。家族、特にお子さんに万が一感染させてしまわないようにするためです。このような場合に、この医師のお子さんが、親に棄てられたと思うでしょうか。否です。起きている事態が理解できないような小さい子どもの場合は確かに難しいでしょうが、大切な関係だからこそ、距離が必要になるということは、距離を置かれた側が日頃、距離を置くことになった側からどれだけ愛されているかで、そこに隠された愛情に気付けるかどうかが決まるように思います。

 家族間よりは少し距離のある関係、例えば職場の同僚や友人関係の場合は、物理的な距離が広がっていくことで、コミュニケーションが取りづらくなるということはあるでしょう。同じ言葉でも、表情や声のトーンがないと、どういうニュアンスで言っているかがわかりにくくなることはありますし、会ったり連絡を取ったりする頻度が少なくなると、お互いに置かれている状況が変化しますので、考えていることが理解できなくなってしまうことは確かです。

 でも、そういう風になってしまうことがわかっているのですから、それならばコミュニケーションを取る頻度を上げたり、コミュニケーションの取り方を、今までの手法に加えて別の手法でも取ったりするように工夫をする余地があるわけです。

 例えば、今まであまり電話をすることはなく、メールやLINEで連絡を取っていた友人とあえて電話やビデオ通話をしてみたりするとか。このような事態に陥らなければ、なかなか電話をすることはなかったかもしれない相手と電話をすると、今まで気付かなかった声の低さとかトーンとか、口癖とかに親しみを感じられるようになるかもしれません。

 要するに、距離が必要であるということを、人間関係が希薄になることの理由にしてしまうかどうかは、その人自身にかかっているのではないでしょうか。

 コロナとの戦いは、長い戦いになると言われています。その戦いの意味は、疫学的な意味合いでの戦いだけではありません。大切な人との人間関係を育み、維持していくという意味でも、経済的な活動を続けていくという意味でも、コロナに負けずに戦っていきましょう。そういう営みこそが、多少現実では失敗したとしても、七転び八起きで新しい工夫をして戦い続ける姿の描写こそが、おそらく新しい生活様式の中で人々に求められていくフィクション(小説)の役割になるのではないかと私は思います。

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