エッセイを書く 〜村山由佳「命とられるわけじゃない」
私は、普段フィクションを書いている方がエッセイを書く時、どのような心理で書いているのだろうと、前から興味がありました。
というのも、エッセイは、少なからず自分自身の体験から感じたことを、自分らしい言葉や文章で他人に伝える側面があり、それはフィクションを創り出すこととはまた違う、リアルな自分自身をさらす作業になるからです。
今回は、小説家である村山由佳さんが、ホーム社のWebエッセイ「命とられるわけじゃない」で連載していらっしゃるエッセイの中から、小説家がエッセイを書く時の心理について書いた第1回「フネさんと同年代の女性たち」を取り上げたいと思います。
村山由佳さんの作品としては、長いシリーズ「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズを、私は学生時代愛読していました。かれんのような大人の、それでいて危うい、それが可愛らしい女性になりたいと思っていたけれど、それは思春期の、年上の女性に憧れる勝利という男の視線で書かれていただけで、どの女性にも備わっている危うさだったことは、自分自身が年齢を重ねるにつれ、わかってきたことです。
また「ダブル・ファンタジー」は、中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞のトリプル受賞した官能的な恋愛小説でしたが、根底にあるのは、夫や恋人から押しつけられる価値観から自由になって生きたいと思う女性の孤独が書かれていたように感じました。
そんな村山さんですが、ご自身の2度の離婚も経て、「いずれの場合も自分から夫たちに別れを切りだし、別の男との恋に血道を上げ、いけしゃあしゃあとその経験を活かしていくつもの小説を書き、飯を食っている」、でも本音では、「私にはいまだに恋愛というものがよく掴めない」と言い、恋愛小説を書く際には、実体験を過去として振り返ることで、自分に都合のいい話に塗り替えられてしまうものだともおっしゃるところを見ると、やはり小説はある程度実体験をベースとしつつも、基本的にフィクションであり、そうであるがゆえに、美しさが保てているのかもしれません。
一方でエッセイについては、「フィクションという匿名性を取り去り、サングラスとマスクをはずすように素顔があらわになる文章」と捉えられていて、ようやく掴んだ現在のパートナー「背の君」と地に足の着いた今現在の暮らしを、「淡々と平常心で、決して自分だけに都合のいいように塗り替えることをせず、それでいて露悪の快楽にはまり込むこともなしに、そこにあるものをあるがままの姿で」綴っていけたらいいと書かれていました。
エッセイを書くには、勇気が要る。それが私も誰かの書いたエッセイやコラムの感想と、それに関連して自分自身の体験をnoteに記載する試みをしてみての感想です。
実際に何かを体験すること、その体験によって感じたことを、そのままさらすというのがエッセイの基本なのです。それは、決して綺麗なものでは終わらないでしょう。
でも、だからこそ小説よりもエッセイは、求められるのかもしれません。そして、エッセイを書く側としては、それを他人にさらすことを前提とすることにより、ようやく自分の殻に閉じ込めて消化できずにいた複雑な思いを、整理することができるのかもしれません。
というわけで、皆さんも誰かのエッセイを読んだり、また自分でエッセイを書いてみたりしてはいかがでしょうか。きっと得るものは少なくないはずです。