特別会計の始まりは山口だった?江戸時代に生まれた撫育(ぶいく)制度とは
江戸時代に長州で特別会計のルーツが生まれたらしいことをご存じの方はいらっしゃいますでしょうか。
本州西端の小さな国でどうして大砲など多くの武器を持ち外国と戦うこと(下関戦争)ができたのか、倒幕運動を起こせるだけの資金があったのか?そのヒントがあったようです。
私も先日のClubehouseでその存在を知り、お話を聞き、興味深かったので検索してみました。
関ヶ原の合戦で西軍として戦った結果
関ケ原の合戦前は、中国地方の多くを領土とし120万石大名としてかなり裕福だった毛利藩。関ヶ原の合戦後に外様大名となり、今の山口県の長門・周防に領土を減らされてしまいました。
<江戸時代 長州・各藩の石高と初代藩主>
長門・萩藩 36万石 毛利輝元
長門・長府藩 5万石 毛利秀元
周防・徳山藩 4万石 毛利就隆
周防・岩国藩 6万石 吉川広家
石高を大幅に減らされた上、さらに江戸城や日光街道の改修費、利根川の橋の建築費など大きな負担金まで課せられ困窮。
負担が大きくなってきた中で、藩存続のために質素倹約を推し進めるように。武士も俸禄としてもらった一部を主君への馳走米として上納していたらしく、いわゆる減俸にもなっていたようです。
その中で、馳走米など少しづつ非常時用の特別貯蔵をし始め、萩城内に宝蔵を作り、そこへ貯蔵していったようです。
本格的な撫育(ぶいく)制度の始まり
1700年半ば、7代藩主の毛利重就(しげたか)は大きな財政改革を行いました。宝暦検地として、萩藩内の土地調査を行い、税対象を増やして6万石も上乗せ。その内、4万石は本繰りとは別の非常時のための秘密資金とし撫育局に管理運用させ、本格的な撫育制度が始まりました。
秘密資金を上乗せするため海に囲まれた立地を生かし、今の下関市、防府市、光市に港を開港。倉庫業、金融業、密貿易も開始し、秘密資金を積み上げていったとのことです。
1800年半ば、藩政改革を促した村田清風は下関に金融兼倉庫業となる越荷方となる役所を設置し、薩摩藩などと通商業務を行うように。なんと、明治維新で活躍した桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作は越荷方を管掌していたらしいのです。
要するに、外様なった毛利が倹約のために始め、そして藩を存続するために隠し資金を貯蓄し、それを増やすために新しい生業をはじめ、そこで薩摩とつながったことにより、倒幕運動へと進んでいったとのこと。
非常に興味深いし、倒幕に際して、莫大な資金がどうしてあったのかの謎が解けたような気がしました。これを良しとするのか、悪しとするのかはおいておいてですが。
高校の時は日本史は点数を取るという意味で得意科目のひとつ。暗記するだけで点が取れる、本当に意味ない、単なる暗記力強化にしか過ぎず。
歴史を知ることの意味、面白さを実感する今日この頃です。過去の歴史を回想するって夢があるし、どんなに知ろうとしても真実がわからないから夢があるのかもしれません。タイムマシーンができない限り。
引用、参照文献:
長州藩における撫育制度について
http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/sc/metadata/1347
【歴史】特別会計のルーツは萩藩(長州)の「撫育資金」だった!
http://jimotopress.net/politics-and-economy/1704/
読んでいただき、ありがとうございます😊 ぶちうれしいです。山口の記事を引き続き書いていき、山口好きを増やしていきたいと思います✨