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2006年の本屋のカガヤ 手紙篇

 「2006年の本屋のカガヤ」(「本屋篇」と副題をつけるべきだった) https://note.com/kagayam/n/nd6807708d2ef と「「待つ」ということ」(「2006年の本屋のカガヤ 木篇」と題するべきだった) https://note.com/kagayam/n/n8623d45dbdd6 につづき、某ウェブサイト掲載の文章を。

☆☆☆☆☆

 手紙が好きだ。
 メールもいいが、できれば手書きが望ましい。封書なら、なおいい。箱と同様、開くときのドキドキを感じられるから。郵便で届けば最高だ。ポストの中の暗闇をくぐりぬけて届くメッセージ! 贅沢を言うなら、チャールズ・ブコウスキーみたいな郵便局員が舌打ちしながら届けてくれたらもっとすてきだ(幻冬舎文庫「ポスト・オフィス」参照)。まあ、熱烈なラブレターであれば、そんな形式的なことは、どうでもいいのだが。

 届かない手紙ばかり書いていた時期がある。10年前、学生時代の夏休み。好きだった女性が、いつ帰るとも告げずに、とつぜんヨーロッパ旅行へ出かけた。ぼくは、来る日も来る日も彼女あての手紙を書いた。居場所を知らなかったから届くはずもないのに。それ以外は何もせずに過ごした。いや、何かしてはいたが、ハーマン・メルヴィル描くバートルビーのように「せずにすめばありがたいのですが」と心の中でつぶやきつづけていた(国書刊行会「代書人バートルビー」参照)。このバートルビー、かつて携わっていた仕事が、配達不能郵便(dead letter、届かない手紙)の処理なのである。

 「葉書でドナルド・エヴァンズに」は、詩人の平出隆が、ドナルド・エヴァンズという画家にあてて書いた、届かない手紙を集めた本だ。
 ドナルド・エヴァンズ(1945-1977)は、架空の国の、架空の切手を描いた画家である。歴史、気候風土、産物、言語、通貨まで詳細に設定した魅力的な42カ国を「建国」し、それらの名所や特産品を図案とした4000枚におよぶ切手を「発行」した。自分が親しんだ現実の地名を少しだけ改変した国名・地名にしたり、あるいは、「友人愛人諸島」と名づけられた島々の景勝地が「一目惚れ」や「浮気心」といった友情・愛情に関わる意味をもつ地名だったり、「マンジャーレ」(イタリア語で「食べる」の意)という国の切手は、えんどう豆やオリーブなど食材の絵柄で通貨単位がグラムだったりする。そうした発想の妙はもちろんのこと、水彩の繊細なタッチもすばらしい、みごとな作品世界だ。

 イタロ・カルヴィーノは、エヴァンズの作品に触れ「おそらく彼をいちばん惹きつけたのは切手のもつ祝賀、称揚的な機能である」と述べている(松籟社「砂のコレクション」参照)。エヴァンズの切手は、現実の手紙を届けない。しかし、それは確かに、ぼくらの精神をどこかへ届ける。現実から遠く離れた場所ではない。ありふれた物や人との些細な出会い、それをあらためて祝賀する視点を与えてくれる場所だ。

 平出隆は、エヴァンズゆかりの土地・人物を訪ねる旅に出て、行く先々で、エヴァンズにあてた手紙を書く。現実と虚構の境界を行き来するようなエヴァンズの作品とともに、世界のへりをたどるような旅。その帰路、最後の手紙はこうしめくくられている。「ぼくはいま旅立ったところだ。世界へ、世界から。すべてはまるで違っていて、親しいドナルド、ぼくにもすべてがあたらしい。」 世界から世界への旅立ち。別世界ではなく、この世界をあらたに愛しなおす旅だ。

 本というのは、放っておいたら届かない手紙みたいなものだ。宛て先が書かれていないから。それでぼくはこう言いたくなる。「すてきな本屋、それはときどき、ちょっと気の利いた郵便局になる」 ジャック・デリダの「偉大な哲学者、それはいつも、ちょっとは大きな郵便局なのだ」という言葉をもじってみた(東浩紀「存在論的、郵便的」(新潮社)から孫引き)。本屋には、本の見えない宛て先を読み取り、読者へ届くようにする役割がある。届かない手紙ばかり書いていたぼくだけど、それを必要とする人のもとへ、宛て先の見えにくい本が届くための手助けを、さりげなく、させていただけたらと思う。
 本屋で手にしたその本が、実はあなたあての手紙で、一冊の本とあなたとの小さな出会いをそっと祝賀する見えない切手が貼られている。そんな空想はいかがだろう?

(なお、本文中で東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社)から孫引きしたジャック・デリダの言葉を含む『絵葉書Ⅰ』(水声社)は、この文章を書いた翌2007年に翻訳出版され、件の文言は、《ひとりの偉大な思想家は常に少しばかり大きな郵便局だ》と訳されている(p.52)。)


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