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『無言の宇宙』を通じて、考察。

言語化というものについて考えてみたい。

さあ、考えてみてくれ、と言われたときに
かの有名なヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の
第7の命題「語りえぬものについては、沈黙しなければならない
もしくはその著書全体が浮かぶ人は多いと思う。

だが、この言葉の意味を今追いかけるとそれだけで
本が一冊かけてしまうので、今は簡単にまとめさせてもらうと


「愛」について言語化できるのは愛そのもののうちの一部しかない
「愛」そのものの言語化は不可能であるのだから
「愛とは~」といった文章は「創作」でしかない
だから、「愛」の言語化出来ない部分を無理に言語化することは間違っている

これはあくまでもヴィトゲンシュタインの主張(の一部)だけど、
説得力はあると思う。

じゃあ無言の宇宙はどうして
愛について語らない方がいいという結論になったのか
その差を研究してみたい

僕たちはなぜここで見つめ合っているのかって
不思議なことだと今改めて思ったかもしれない
Can't explain this feeling
偶然に弄ばれて
「理屈じゃないんだ」

「見つめ合う」というのは、「語り合う」の逆
それを不思議なことだと思ったことからストーリーが始まっていく
もしかしたら、「この気持ちをうまく言えない」と思ったのかもしれない
恋人と見つめ合ったときに「あ、今の自分の気持ちをうまく表現できないかも」という不安を抱いた、そういう始まりだろう。

もちろん、それは奇跡的なことでもあるし、
理不尽なこと、理屈じゃないことを繰り返してきた結果でもあると思う
そこからちゃんと考えを深めていけるのがこの主人公の素敵なところかな

広い世界には多くの人がいるのに
同じ時間を共有するなんて
それを奇跡で片付けちゃうのは
もったいない勘違い

「奇跡」と一言で片づけないで欲しい
この気持ちを「奇跡」というのは間違ってないけど、
「それを超える部分がこの愛にはある」
と考えると、ヴィトゲンシュタインの主張に近くなる気がする

運命以上の
行き過ぎた感情
なぜだろうなぜだろう
言葉なんかいらないって初めて気づいた

ここで急に「行き過ぎた」とか言い出すのが秋元先生っぽい
奇跡もたしかにあるけどそれ以上でもある
運命もたしかにあるけどそれ以上の感情がある
だから、「言葉なんかいらない」って結論になってしまう
ちょっと強引だけど、「言い合せないんだから言わない方がいい」
というのは、案外昔から言われていたことなのかもしれない

愛を少しでも語り始めてしまったら
"愛してる” その真剣な気持ちは
心から漏れて行くものだ
知らぬうち熱が逃げちゃうように
もうお互いに感じなくなる

そこまで考えていくと、
「愛を少しでも語り始めてしまったら」
というのが、「語る」ということが「本質から離れることだ」ということをよく自覚した上での発言に思える
これは、言葉を大事にしたい立場としてはつらいことだけど、
言葉の限界値をちゃんと知っていないと、
「語り」すぎたら、それは本質が見えなくなってしまう。
だから、時には黙っていることを選ぶことも必要ってことだと思う。

それは、語り過ぎてダサくなっちゃってるオタク代表のあ〇どうが証明してくれていると思う。
なんでもかんでも言い様に語り
時には思ってもいないことを無理やり語り始める
そんなのは、気持ちを覚めさせる行為で、
「愛してる」が伝わらなくなって
熱が逃げちゃってなにも伝わらなくなるんだろうね

客観的になってものを見るからだろう
大切なものがなぜ大切なのか
考えたって何になる?

僕は君を理由なく好きだ

無言の宇宙の主人公のすごいところは、ここで終わらずにちゃんと考察することだ。
つまり言語化=客体化ととらえる。

たとえていうなら、金魚鉢の中の金魚に「金魚鉢とはなにか」を伝えるようなものだ
金魚鉢の中にいる限り、その形を想像することは不可能に近い
だが、金魚鉢の外から見ればそれは一発でわかる
それが客観視だが、
一度客観視してしまうと、もう金魚鉢の中には戻れないというのが、
金魚の運命だと思う。

愛を語るべきか語らないべきか。
それは永遠に議論しても終わらないくらい永い問題だと思う。
でも、語らないわけにはいかないし、
それが、「愛のすべて」ではないことは充分に自覚すべきだ。

「語りえぬもの」について沈黙しろ!
でも、「語りうるもの」は語り尽くせ!

そんなところだ。

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