映画論映画としての「インセプション」 -何故「ダークナイト 」の次だったのか-
本稿は2010年夏に自分がmixi日記に書いたものを基に加筆修正を行なったものである。
9年前の自分の感想に向き合うという試みはなかなかおもしろく、そして今回ブログみたいなものを始めたくなった動機である「自分の思考のアーカイブ化」が既に行われていた先例でもあるため、第一回をクリストファー・ノーラン監督、レオナルド・ディカプリオ主演「インセプション」をテーマとした。
この映画は「鮮烈に植え付けられたものや忘れられない記憶に人は抗い難い」ということを描いており、2019年秋現在において「ジョーカー」の大ヒットによって話題となった懸念、最近のプライベートの心情、ブログめいたものを始めるといったきっかけも「インセプションされる」という軸においていろいろと考えることが出来とても有意義だった。
では「インセプション」を観て過去に考えたこと、本作公開後の状況や俺の思考も絡めて。
あらゆる映画には最低限の条件とでも言うべき共通項がある。それは「作り手の存在」だ。至極当然である。誰かの意思や労力によって映画は作られる。映画が人の手を一切借りずに自動的に出来上がることはあり得ない。
では作り手の何が映画となるのか。閃いたアイデア、自己の願望、昔の経験や記憶、夢や妄想で見たこと、過去の歴史や現代の事象に対する何らかの意図、観る側に何かを感じ考えてほしいという意図、商業的要請、大人の事情・・・
すべては人の頭の中、心の中に端を発するものである。
これらを総じて何と称するのがふさわしいかはわからないが、『映画』の発端であり核となるのは明らかだ。
逆説的には人の持つ何かを『映画』として表現すること、それが作られる動機であり、意義とも言えよう。
そして『映画』として鑑賞出来うる形に変換された、作り手の中にあった「何か」は観る人に受け取られることもそうではないことも。
映画「インセプション」はこういった『映画』そのものを描いた作品だったのではないだろうか。
タイトルの"Inception"とはどういう意味か。辞書で引けば「始まり、開始」、劇中では「(アイデアの)植え付け」という意味で使われている。本作は人の潜在意識や夢に入り込み、その中で人間のアイデアを盗むこと(Extraction)、植えつけること(Inception)が非合法ではあるが可能になった世界の話だ。
これは前置きの「『映画』とは何か」そのものである。人の中にある形のないものが発端(Inception)となって「映画『インセプション』」となり、観客に植えつけ(Inception)られることと一致する。
本作が『映画』を描いていると考えられる他の点も挙げてみよう。
映画前半、主人公コブが設計士としてスカウトされた女子大生アリアドネについて「夢」の概念を教えるシーンだ。主人公らのアジトから場面が切り替わり二人はパリのカフェにいる。よくある編集だ。二人がアジトからカフェに移動しただけだ。
そこでコブはアリアドネにこう言う。
「君はこのカフェまでどうやって来た?」
実はカフェの時点で既に夢の中に入っており、夢を見始めるときいつ夢になったのか、そこがどんな場所であろうとまず気づかず、それが夢だと思えない、という夢ならではの特性を描いたシーンとなっている。
場面間の繋ぎ目、省略が暗黙の了解と化した映画の基礎文法においてもそれは同様だ。 我々は夢も映画も、気づかずそういうものだと無意識レベルで受容している。
だが主人公はその「編集」に登場人物でありながら気づいている。
登場人物が映画の中にいることを自覚しているというのはメタ的なギャグとして用いられるパターンは多い。「ラスト・アクション・ヒーロー」や「デッドプール」は代表例であり、ドラえもん映画でスネ夫が「映画になるとジャイアンは頼もしい」と言うギャグもある。
しかし「インセプション」ではギャグではなく、大前提となる「夢」の説明として印象的に使っているのが特徴だ。夢を通して『映画』を描くことでキャラクターに映画の技法・構造を言及させたのではないか。
他にも『映画』を想起させる映画技法そのものが組み込まれている。時間感覚の異なる階層同士を結びつけるためにハイスピード撮影(スローモーション)が用いられ、敵を欺き倒すために「変装」や「ペンローズの階段」といういわば特撮や特殊効果も出てくる。
またコブ達がターゲットであるロバートを嵌めるための夢の舞台やインセプションの仕方を構想するシーンはさながら映画のロケーション、シナリオ、演出設計のミーティングの様相を呈していた。
更には本作の重要な設定である夢の階層は本作のストーリー構造とも一致する。
まず、
・前提となる世界観を説明し出発点となるパート(現実)
・ターゲットを捕まえ敵を追いかけるアクション(第一層)
・ターゲットを騙し近づく(第二層)
・任務の達成(第三層)
・主人公自身の問題の解決(虚無)
と、夢の階層が、そのまま本作のストーリー構造にも呼応する形となっているのだ。
本作における「夢」とは人の潜在意識の投影である。願望、記憶、発想、意思が視覚化したもの。
そう、前置きで述べた『映画』とほとんど同質である。
以上のことから本作は『映画』を「夢」として描いた作品と言えるのではないだろうか。
「夢」を題材とする映画は不条理であったりファンタジックなことが多いが、本作ではある程度コントロールが出来、非常にリアルな質感の描写であることもここでの「夢」が『映画』のメタファーだからではないだろうか。
(本作の登場人物は夢をコントロールしながらも夢に翻弄もされる。彼らは作り手であると同時にその作品の一部でもあることを象徴するかのようだ)
では何故「夢」を通して『映画』を描いたのか。
端的に言えば、「夢」に対する抗えなさが『映画』にも備わっている、その危うさに対する自戒や自省ではないか。
本作における”Inception”という行為は先も述べたように人にアイデアを植えつけることである。
単に命令、洗脳してそのアイデアをターゲットに実行させるのではなく、あたかも自分で考えたことかのように深く根付かせてしまう。証拠も不自然さも無しに相手を思い通りに動かしてしまう。
とてつもなく恐ろしいことだ。自覚が一切ないまま他者によって思想や行動を操作されてしまう。人は「自らが思ったこと」についてなかなか懐疑的にはなれない。それを自分のものだと信じてしまう。
本作で主人公コブが自分の妻にしてしまったこと、その妻の末路は正にこの危険性を描いたものだ。「この世界は現実ではない、目覚めなければならない」、そうインセプションしてしまったため彼女は現実世界に帰ってからも目覚めようとし、遂には自ら命を絶ってしまう。主人公はその罪悪感に苛まれている。
こういった点は「今いる此処は『現実』ではない」と呼びかけてくる作品の増加に対するカウンターとも言えるだろう。
当然とされてきたこと(現実、常識、モラル)について懐疑的な姿勢の作品は多い。
「時計じかけのオレンジ」「マトリックス」、そして本作の前のノーラン監督作品「ダークナイト」のジョーカーもそういったキャラクターであった。
これらの作品は高い評価や人気を得られる可能性もある反面、リスクも非常に大きい。この手の映画の影響から自殺・犯罪に至るケースも少なくない。
そして『映画』は人間の視覚・聴覚を通した間接的な表現が出来る。セリフでテーマを説明するだけではなく、観客に思わせるように、気づかせるように描くことも出来る。
これはまさしくインセプションという行為そのものである。人の思考や感情を具現化した「夢」を使ったインセプションによって人は救われもするし(ターゲットのロバート)、破滅もする(コブの妻モル)。
映画も観ることで励まされることもあれば悲しくもなり憂鬱にもなり、時には犯罪や自殺すらもありえる。我々は日々映画を観ると何かしらインセプションをされていると言えよう。
「夢」を『映画』のメタファーとして考えるならば、本作はもっと根本的な「映画の罪」を描いているのではないだろうか
本作のラスト、主人公は夢の中で毎回遭遇してきた妻を幻影として認める。記憶、願望、後悔が具現化されたものに溺れるのを止め、現実に帰還する。どんなに影響力があり、現実味があっても夢は夢であり、現実は現実でしかない。そしてすべての人に現実が待っている。
(その境界にトーテムという個人にしかわからない感覚的な要素を使ったのが巧い。理屈ではなくあくまで個人の感覚的なものとすることで妙な説得力があった。)
本作はノーランのブレイク作「メメント」と同じく「死んだ妻への想い」に囚われることが映画の軸になっている。
「メメント」では記憶障害になり現実と感情・後悔・記憶の区別が出来なくなった男の皮肉で悲惨な沼のような復讐劇であったが、本作には明白な贖罪と救済がある。 コブは現実とそうでないものの分離して認めることでようやく家へと帰還する。
そこで物議を醸したあのラストカット。最後に回されるトーテムであるコマ。そのコマが止まる寸前で暗転。
コマは夢の中だと回り続け、現実では倒れる。だが劇中夢の中でコブがコマを回すシーンが一度もない。実は決まって現実に目覚めたときだけ回している。つまりトーテムで試すという行為をする時点で既にそこが現実だと彼は知っているのだ。
(彼は夢と知りながら妻の幻影に依存している自分への不安や焦燥感が目覚める度にコマを回すという描写でもある)
だからラスト、家に戻ってから彼はコマを回す。彼にとってそこが現実だからだ。
カメラはギリギリまでコマを映す。このコマはこれを観ている者=作品の受け手、観客のためのものだ。本作における「夢」が『映画』であるならばこのラストカットは非常に納得の行くものだ。
「夢」=『映画』であるならばコマは回り続けるはずだ。コマが止まる時は現実。だから本作は「回り続ける(映画)」、「止まって倒れる(現実)」のギリギリの狭間をラストショットにしたのではないだろうか。
(エンドロールに劇中「キック」の合図として使われたエディット・ピアフの「水に流して」が流れるのも本作自体が観客にとって映画=夢であるからだ。 )
また止まっている・止まっていない、どちらとも取れる印象的な画が受け手に与えるインパクトはかなりのものだ。元に物議を醸し、夢オチ説なんてのも囁かれた。正に本作が観客に強烈にインセプションされた証左だ。
『映画』から観客が強烈に何かを感じ取れば(植え付けられれば)、それは心に残り続けやがて後世に語り継がれもする。
また観客の思考、感情、行動にまで影響を及ぼすことがある。 だから『映画』は危険でアナーキーな存在でもある。そういったことを描いたのが映画「インセプション」ではないか。
残念なことに「ダークナイト 」のアナーキズムに影響を受けたとされる人物による悲惨な銃乱射事件が2012年の「ダークナイト ライジング」公開時に劇場内で起きてしまった。
また2019年公開の「ジョーカー」もこの事件や、作品内容を踏まえ本国での上映を危険視する声も話題になった。
何故「ダークナイト」の後に「インセプション」だったのか。それは『映画』の力によるインセプションに対する自戒と自省というテーマが込められていたのではないか。そしてそれが次回作で現実になってしまった皮肉。映画には確かに悪影響を与えてしまう場合もあるが、その危険性そのものを本作のように映画として訴えることもまた可能なのだ。
9年経った今も時折思い出し留意していることである。