シェア
燎リョウ
2021年6月12日 20:20
(注)見出しが17とあるが、原文ママ記載しているためである北前船について記したが、島の海運はどのようであったかを調べてみると、古く農耕民族と漁撈民俗に分かれていて、互いの分野に関与することは、厳しく禁止された時代が長く続 いたようである。防人の来島、居住を考える時、本土との連絡には舟は必要欠くことのできぬものであり、この時代(天平時代)から通航の舟があったと考えられる。自給自足であった時代
2021年6月5日 14:41
宇津村は、北前船の寄港によって繁栄し、船宿として数件の名が見られる。船宿には、それぞれ指定した船があり、その船が入港すると、船宿に雇われた百姓達がテンマに乗り組み競争して、船頭始め乗客を迎えに行った。船宿では風呂を沸かし、ご馳走を作り歓待し、休息の場を提供するのであって、それは出港の日まで続いた。出港する際に、船頭は茶代として礼金をやっており、一定額の金でなく、その時、その時、又船ごとに異なった
2021年6月3日 21:28
宇津村の開拓が、北前船の寄港によって急激に進んでいった事は前号で記したが、北前船とはどの様な船で、どの様な役目を持っていたのだろうか。北前船は、近代以前に貨物、旅客の海上輸送をしていた船のことを称していて、廻船とも弁財船ともよばれており、七福神の一神で、福徳財宝の女神である弁財天にあやかった名称で、当時の大型帆船の総称である。 当初は、500石積み以下の小さな船で、東北、北陸地方からの天領米や藩米
2021年6月1日 13:52
宇津村に、何時の時代から人が住み始めたのか文献はなく、はっきりとしたことは分からないが、一説によれば延宝6年(1678)に、本郷(本村)の百姓、三右衛門が定住したのが始まりとされている。しかし、これより先、約900年前の宝亀年(770~779)には、稲作が農業の支配的生業として盛んになっており、後に本村では、田作り出来る平野部が全て耕されていき、いつの時代か分からないが、一部の農民が宇津の平地