見島の歴史(17)トウカイ(渡海船)

(注)見出しが17とあるが、原文ママ記載しているためである

北前船について記したが、島の海運はどのようであったかを調べてみると、古く農耕民族と漁撈民俗に分かれていて、互いの分野に関与することは、厳しく禁止された時代が長く続 いたようである。防人の来島、居住を考える時、本土との連絡には舟は必要欠くことのできぬものであり、この時代(天平時代)から通航の舟があったと考えられる。

自給自足であった時代、産物を売買する船は不要であったが、平家の落人が宇津に居住し た時代(1185~)から、産物の売買が行われるようになったと考えられる。何故ならば、島の実権を握った山田氏(平氏)は、島の産物で大陸と交易を行い、その利益によって繁栄した形跡があるからである。船の記録は、嘉永3年(1850)に初めてみられ、廻船1、 荷方船4、計5艘とあり、積荷専用の船で、50石積みから100石積強程度の船であったらしいが、時代を経るに従い、大型化され、2本柱で500石積みの船もいたという。

本土へは通船があり、嘉永3年当時、筆者の祖先も通船に従事したとあり、人のみを乗せたとある。(後に荷方船に転業)これら全ての船をトウカイとよんでいた。島からの積荷は 米・麦・海産物(塩干物)・牛・茅の苫・雑穀類で「生の魚」は積まなかった。大阪へは、鰤のチギリ(内臓をのけて、血と塩を魚体にまぶしたもの)を持って行ったが、日数がかかると腐るので困ったと言う。他に、アゴの塩干・クズナの塩物が主であった。乾和布は、四国美津浜、広島尾道で良く売れたので、量が少ない時には、本土の宇田、奈古地方で買って持っていった。大阪で積荷を降ろし、帰りは砂糖、種油、たたみ表、塩などを各地に寄って買い取り、萩に帰り、注文の品を降ろして見島に帰ってきた。

大阪へは、年3回くらいの航海であった。 日本海方面は、隠岐へ裸麦、浜田へはテンジュク豆や麦、境港へは、カジメの灰を持って行った。九州方面は博多へ、ヤサデの塩漬けやアゴの塩干しを、長崎へはアワビのメイホウ(湯がいて干したもの)を持っていくと、中国人が高値で買ってくれた。萩、下関方面へは常時行っており、島の人々はトウカイに生活必需品を注文していたといわれる。 大正年に入り、動力船が出現し、帆船による、トウカイは次第と姿を消し、動力船に変わっ ていった。


(文責 福永邦昭)
※原文ママ

引用元 : 見島公民館だより わ 第28号(平成19年8月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?