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3月3日(日)

初めまして。「note」を記してみようと思います。
僕は職業ライターをやっており、いくつかの媒体で連載を持たせてもらっています。ただそれは、インタビュー記事や人物ルポルタージュ、新刊の著書レビューなど、「ひとさまのこと」を聞いたり書いたりするのが中心で、そういえば自分自身のことを記す文章を書いていないよなー、ということに気づきました。

昨日(3月1日、2日)は仙台に出張に行っていました。東日本大震災の「震災遺構」を、いま人物ルポルタージュで追いかけているかたと共にめぐり、写真を撮ったり、話を聞いてきたりしました。

現役の新聞記者時代からそうだったのですが、僕は事件事故の取材など喫緊を要するケース以外では、つとめてタクシーには乗らず、取材現場に出かけるようにしています。それは、主要駅からいきなり現場に入ってしまうと、取材現場の周りが放つ雰囲気だったり、町の人の様子だったりを感じ取ることが難しいからです。

もっといえば、その界隈の人たちの生活水準や治安や、町の地面に塵のように重なっているものを、ビューンと現地入りしてしまうと感じ取れないからです。

新しくできた仙台地下鉄東西線の終点、荒井駅から乗ったバスの行き先は、「震災遺構仙台市立荒浜小学校前」という、長い長い停留所名でした。その行き先を前後左に掲げて走るバスに毎日、通勤や通学、病院通いで乗る町の人たちの気持ちとは。ぼんやり考え続けていました。

荒浜地区は、仙台市中心部から東に約10キロ離れた太平洋沿岸部に位置しています。海岸線に沿うように歴史ある運河・貞山堀が流れ、その周囲に約800世帯、2200人の人々が暮らす集落がありました。

1873(明治6)年創立の荒浜小学校は、海岸から約700メートル内陸に位置し、震災当時は91人の児童が通っていました。

2011年3月11日に発生した東日本大震災において、児童や教職員、住民ら320人が避難し、2階まで津波が押し寄せた荒浜小学校。津波による犠牲を再び出さないため、その校舎を震災遺構として公開し、津波の脅威や教訓を後世に伝えています。(仙台市まちづくり政策局 防災環境都市推進室の資料より)

1階の教室は、戦争の爆撃を受けたような風景が広がっていました。2階の地面まで津波は到達し、その水しぶきの跡は2階天井まで上がっていました。時間割表、黒板の書き込みなども残っています。

4階の教室には、壊れてしまった体育館の壁に掲げてあった、荒浜小学校の校歌のレリーフが飾られています。校歌の歌詞一文字一文字を、木の彫刻で浮かび上がらせ、パズルのように組み込まれたレリーフです。

屋上にあがると、粉雪の時折混じる、猛烈な強風に吹き晒されました。そう遠くない先に、太平洋が鈍色の光を放っていました。貨物船が浮かび、海岸に何本か残る松の木がゆらゆらと揺れていました。かつてそこにあった荒浜の町は、いまはありません。屋上に避難して助かった子どもたち、町の人たちは、こんな寒風のなか、ずっと町を見下ろしていたのでしょう。その気持ちを想像し続けていました。

取材ではその後、荒浜から、隣町の閖上(ゆりあげ)に移りました。閖上でのことは、のちにまとめるルポルタージュに記そうと思います。

僕は今回、ちゃんと悲しみ、ちゃんと傷ついて現場を直視しようと思っていました。けれども実際には、僕は震災を悲しむには「初歩中の初歩」の人間であることを思い知りました。震災を悲しむステージにさえいないことに愕然としました。報道に携わってきた人間として、まったく勉強が足りていないことに慄然としたのです。

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