「君たちはどう生きるか」前提知識ゼロ考察

 遅れ馳せながら「君たちはどう生きるか」を鑑賞してきた。前評判は絶賛と非難の二極化と聞いており、すでに観てきた友人たちも言を左右にしてのらりくらりと感想を避けたがるので、正直なところ不安な気持ちでスクリーンに臨んだ。
 私個人としては大変面白く鑑賞できた。一方で酷評する気持ちもよくわかった。この点については以下詳しく考察していきたい。

ネタバレ注意

 当然のことながら、ここから先は「君たちはどう生きるか」本編のネタバレが全般的に含まれている。まだ鑑賞していない方はここで引き返すことをおすすめする。ネタバレ防止のために目次も非表示にしてある。

 以下注意されたし。

ストーリー全体の構成について

日本の民話っぽい話

 考察の前に、ストーリーについて理解したことから書いていく。全体的な印象を言えば日本の民話っぽい話だなと思いながら観ていた。
 主人公である眞人はアオサギ(以下敢えて「君生きバード」と呼称する)からさんざん煽られた結果、謎の塔に導かれていく。その中で一緒についてきたババア(キリコ)と共に”地下”へ連れられていく。この地下の世界は死の国=常世(とこよ)と思われる。常世は現世(うつしよ)に対比される、いわゆるあの世である。
 日本の民話には「山や森などが禁足地に設定され、うっかりそこに入ると常世に通じている……」という話がよく出てくる。作中でも謎の塔は禁足地に設定されており、その伝承も都合よく書き換えられている。うっかり入ってしまった人たちは「神隠し」に遭って、ある日けろっとした顔で帰ってくる。なんとも似たような話だ。
 常世の特徴として、まず時間の流れが止まっている、あるいは非常にゆっくりしていることが挙げられる。常世に体感 100 年くらいいたとしても、現世では短い時間しか経っていない。作中においてヒミは神隠しに遭った翌年に神隠し時と全く同じ格好で出てきたことが語られ、またキリコは「ずっとここにいた」旨主張する。これらのことを総合すると、まず常世での姿は神隠しに遭った日から変化せず、成長も劣化もしないことがわかる。また現世に帰るときは眞人がヒミと共に開けた緑のドアを通じてそれぞれの時間に戻っていくので、反対に別の時間からきた人が常世で同じ時を過ごすことに矛盾はない。眞人は実の母であるヒミ=若かりし頃のヒサコと短い冒険をしたのだ。
 もちろん常世での出来事は現世に戻ると忘れてしまう。眞人が覚えているのは常世のものを持ち帰ったからである。このような設定も民話ではよくみられる。
 また使用人のババアであるキリコはおそらく二回目の常世体験であろう。前回は相当長い時間常世にいたに違いない。
 
 と、語ったうえで申し訳ないが、このあたりは深入りしない。
 本作は神話をモチーフにしたフックが大量に含まれており、各地の神話体系に通じている人とそうでない人で理解の差が顕著であった。例えて言えば、もし劇中の映像の中にヒエログリフで物語の筋がちょろちょろ書かれていたとしたら、ヒエログリフを読める人とそうでない人で物語理解に顕著な差が出るのは明らかだろう。本質的には神話教養で差がつく問題であることは承知の上で、このNOTEでは敢えてその視点を取らない・知らない立場からでも言えることは何かを探っていきたい
 神話的な観点についてはすでに深く考察を加えている先人の記事に譲ることにしたい。とても深い体験が得られるはずだ。記事を一つ添付するがあくまでも一例である。

「非難」する気持ちもわかるーープロットが存在しない??

 一緒に鑑賞した人とオムライスを食べながら感想を交換していると、彼はあまりにもストーリーがわからなくて「塔の中=眞人の夢の中説」を唱え始めた。夢オチなど反則も反則でさすがにありえない! とつい反論してしまったのだが、帰宅してから冷静になって考えてみるとあながち彼の指摘もわからなくもない気持ちが湧いてきた。それと同時に、なぜ本作を全く面白くないと思う人が拮抗するのかもわかってきた。
 少し過激な言い方になるが、本作にプロットはない。もちろん作者によってはプロットを切らないタイプの作者(パンツァー)もいるが、そういう意味ではない。本作にはヤマもオチもなく、ただ眞人の体験した時系列に沿って映像を見せられているだけなのだ。

きいてきいて~あのね~朝起きてー電車乗ってーパフェ食べてー服買ってーご飯食べてー帰ってきたー。

よくある「つまんねー」話

 これと同レベルである。茶飲み友達の話ならまだ我慢できようが、映画館で2000円払った客に観せていいものではない。純粋な娯楽映像小説として観たときにはこんなのを面白いとおもうほうがおかしいとすら言えよう。

よく考えると脈絡がなさすぎる

 そう、本作は話に脈絡がなさすぎるのだ。
 まず眞人がナツコさんを助けに行く動機がうすすぎる。母を火事で喪った翌年にそっくりの継母を紹介されすでに妊娠していたなどという状況であるし、時代背景はともかく普通に受け入れられないだろう。実はうっすら嫌っているだろうし、作中でも君生きバードに指摘されていた。それでも助けに行くのだ。お父さんがナツコさんを好きだから。動機がうすすぎる。他に明示されている動機といえば、森の中にはいっていくナツコさんを見かけたくらいだ。
 それ以上に意味不明なのが君生きバードで、彼が眞人を煽り散らかして塔の中におびき寄せた動機が全く見えない。普通の小説なら、例えば「実は眞人を後継に据えたい大伯父の下命で……」とか「塔におびき寄せて取って食うのが趣味で他にも犠牲者がおり……」とかいう設定が明示されるはずなのだが、そういうのが一切ない。中身がおっさんなのも意味不明だ。
 その調子でみていくと、作中の主要な存在のほとんどが眞人と無関係に配置されている。なんならストーリー展開上の必要性すら見いだせない。つまり登場人物が役割を持たない、ただ存在しているだけの存在として描かれている。敵でも味方でもない。大伯父やインコ大王はかなり身勝手だし、君生きバードに至っては「友達」である。そんな説明があるか。

冒険小説として読むとまったくつまらない話

 本作を塔の中での冒険小説として読んだ人もいるだろう。私も最初はそうだった。しかしこのような理解で本作を読むと全然おもしろくない。
 まず眞人というキャラクタが冒険小説の主人公として魅力的に描かれていない。冒頭五分間は無言であり、金持ちのボンボンであるが母を火事で喪ったこと以外はキャラ付けもなされない。ちょっとエピソードが入ったと思ったら、右こめかみを自傷するなど狂人めいた行動に出る。しかもそれが「実業家の父に甘えて級友の敵をとってもらうため」といったある意味人間じみた理由であればまだ理解できるのだが、眞人は明確にその解釈を拒絶する。継母を見つけに行く動機も浅く、塔の中に入っていく理由も単に実母との再会を願ってというだけでは理解しづらい。勇敢に描かれているわけでもなく、難しい顔をして「ナツコさんはどこですか」と訊いて回るだけの機械のようなムーブを繰り返す。
 そして最も重要なこととして、冒険の途中で「苦難を乗り越えて成長する」という要素が皆無である。映画 HELLO WORLD で一行瑠璃は

私は、冒険小説が好きなんです。険しきに挑み、諦めず、最後までやり遂げる姿に憧れます。私もそう生きたい、そうありたいと思うのです

一行瑠璃の名言

 と言っている。眞人は険しきに挑み、諦めず、最後までやり遂げたが、そんな姿に憧れられないし、私もそう生きたい、そうありたいなどと全く思えない。こんな主人公に感情移入できるわけがない。「君たちはどう生きるか」という表題で、眞人のように生きろと言われたのなら金返せと叫びたくもなる。
 しかし冒険譚という形式は普遍的であり、普通の観客がそのまま読んでそのように理解する層も相当数いるだろう。半分の人間がブチギレるのも納得である。

実は怪談なのでは? 但し……

 ここまで本作の意味不明さを語ってきたが、このようなある種「脈絡のない」話を唯一許す形式がある。それが怪談である。
 よく考えると怪談にはプロットがない。強いて言えば前提となる事件や伝承の語りがある程度で、淡々と時系列に沿って語られるのが原則である。それもそのはずで、怪談というのはその語り口によって面白さが担保された形式といえるからだ。
 怪談とは、ソシュール的な理解をするのであれば、読者を巻き込んだ恐怖による通時的な予測破りである。すなわち、

1.読者がその体験に巻き込まれること
2.題材が恐怖的であること
3.時系列に沿って語られること
4.通常の理では説明できない予測破りによって山場を迎えること

民俗学的な理解をすると全く異なるでしょうけど。。。

 この中で1.読者の巻き込まれは恐怖体験を強調する要素であり、2.題材の恐怖性は怪談の言い換えである。そうすると実質的に意味がある重要な要素は3.通時的であることと4.予測破りである。実際この2つは怪談という形式を担保する最も重要な要素であり、例えば全く怖くない話を「通時的に」「山場で予測破りを強調して」語ると、不思議なことに「怖くないだけの怪談」として認識されるだろう。実際、怪談ものの落語にはそのような作品がいくつかあり、例えば「お菊の皿」は有名な笑える怪談である。

 本作は前述の通り眞人の体験を時系列に沿って語っており、時間的な巻き戻しも早送りもなく、平行世界にも飛ばされない。一貫して一人称視点で起きたことを順番に語っている。よって通時性は満たされる。
 また常世での体験は文字通りこの世の理では説明できない展開を繰り返しており、全体を通して次に何が起きるかを予測する法則もなく、作者からの提示もない。よって予測破りも充足する。
 すなわち「君たちはどう生きるか」のストーリー展開はまさに怪談の形式によって語られているといえる。
 しかし、本作は気味が悪いだけで全く怖くはない。常世や神隠しなど素材の恐怖性もあるのになぜ怪談と認識されないのか。おそらくこれは眞人の描き方にある。眞人の性格を勇猛果敢と理解すると冒険譚だが、その理解は前述の通り否定した。とするなら解釈を変えて単に恐怖耐性MAXの不死身体質として据えられているとすればどうか? 眞人は実際にそのように描かれている。様々な恐怖的描写に対して勇気を出すのではなく感情がゼロなのである。勇猛果敢ではなく狂気の一種だ。
 もし怪談の主観=一人称が一切怖がらない怪談があるとしたら本作のような感想を懐くだろう。たまたま私のタイムラインで盛り上がったのだが、そんな怪談、迷惑の極みである。


有無を言わさず読まされたラブクラフト作品という理解

 このような理解をしてもまだ釈然としないかもしれないが、私個人の解釈でいうと、初めて読んだラブクラフト作品群に似ているのではないかと考えている。いわゆるクトゥルフ神話である。TRPGシステムのCall of Cthulhu で通じる人もいるかも知れない。
 ラブクラフト作品群を初めて読んだときは、もちろんクトゥルフ神話体型についての前提知識はない。その状態で読み勧めたときにどのような印象を懐くかと言うと、全体的に気持ち悪い話であるがこれを読んで実際にリアルSAN値が削れるかというとそんなことはない。恐怖耐性MAXの不死身体質とはこの感覚である。眞人は様々な恐怖体験に対してノーダメージであり、すべての攻撃に対し真顔で対抗し続けている。そもそも恐怖への感性がないので当たり前だ。なんとなく気持ち悪いが、別に大したことはない。
 これを面白いと思うかどうかは、まさに読者の感性に委ねられている。われわれは「君たちはどう生きるか」をジブリ作品であること以外前提知識なく読まされており、合う合わないの事前選別なく直面させられている。その場で面白いと思うかどうかは個人の資質によるとしか言いようがない。

 まとめると、あくまで私の理解であるが、つまり直感的に冒険譚と理解しては首を振り、怪談と理解して首を傾げ、なんとなくクトゥルフ的な物語のようで物語でない何かと理解して首が据わった。大きく外しているとは思わない。
 そんな作品に飛び込んだのである。読み方を外すと何もわからない。

我々はどう生きるか

敢えて宮崎駿からの問いかけだと理解してやる

「大家族」などの絵画で有名なルネ・マグリットはこう言った。

絵の題名は説明ではなく、絵は題名の図解ではない。題名と絵の関係は詩的である。つまり、この関係によって、二つの相反するものに共通する側面が表現されなければならない。

ルネ・マグリット

 映画もやはり絵画であるから、題名が映画の説明である必要はないし、映画の内容が題名の解説である必要もない。そして詩的な関係である。内容を理解するときも題名を理解するときも、この原則を忘れないようにしたい。
 とはいえ「君たちはどう生きるか」などという挑戦的な題名をつけられてしまったら、作中からその意味をえぐり取らないといけない義務感に駆られる。たとえその内容が意味不明であっても。
 宮崎駿は同名の小説が好きでこの題名をつけたなどという話も聞くし、まともに取り合う必要はないだろうが、しかし敢えて問われてみよう。我々はどう生きるか。

人生に意味などあるのか

 急にどう生きるかと問われて「こう生きます」と堂々と言える人はいない。そもそも人生に意味などあるのか。
 ここで先程あれだけ「脈絡がない」だの「意味不明だ」だのと dis り散らかしていた本作のストーリーに意味が出てくるのだとしたらどうか。すなわち、人生において起きる出来事には脈絡もないし、意味もわからないし、理不尽である。そこに意味があるとしたら全て後付であり、こう生きるかと決意するのもやはりあとから決められたことである。
 確かに小説や映画では決まったプロットに沿って物語が進んでいく。友人役や敵役、サポート役もモブも作劇上の必要から設置されている。もちろんすべての出来事には意味があり、理想的には無駄な描写などひとつもない。特に映画などという莫大な制作費をかけてつくられるものには一秒の無駄も許されないだろう。
 一方の人生というもの、小説や映画と比べるまでもなく無駄だらけだ。義務教育で教えられたことに意味を見いだせる人は少数派で、意味のある失恋などなく、意味のある死別などなく、意味のある苦役などない。そこに意味があるとすれば、すべて後付である。

 本作品はむしろこの「後付の意味」を肯定するものではないか。

 もしもアプリオリに意味が設定されたものが存在するとすれば、それは設定された目的を達せられなくなった時点で廃棄され、目的を達せられた時点で用済みになる。アプリオリに設定された意味に拘束された存在は、その設定された意味と共に死ぬのである。
 その意味で、人生における出来事の意味や、登場人物の意味などは、むしろ最初から設定されるべきではない。

 本作の話の筋には脈絡がないと書いたが、最初から脈絡のある人生を生きている人などいないだろう。君生きバードの行動の動機がわからないと書いたが、他人の行動の動機が理解できることのほうが少ないだろう。眞人は最後に君生きバードを「友達だ」と主張したが、最初から友達として配役された友達などいるはずがないだろう。
 人生や生き方に意味を見出すことはできるが、アプリオリに人生に意味が付与されているわけではない。
 意味が後置されているから意味のある人生を送れるのだ。

計測可能な人生は直ちに死ぬ

 昨今タイパとかコスパとか行動に意味づけを求める風潮があるが、そのような人生はむしろ自分の存在意義を自ら殺してしまいかねない。ある行動、情報、仕事、人間関係がどんな意味を持つかは、最初にであったときから措定されているものではないし、措定されてはいけない。そんなものは自分で追い求めた「意味」とともに消え去り、直ちに「無意味」になるだろう。

 しかし「どう生きるか?」と問われたのだから行動する前に方針が立っていないといけないのに、意味が前置された行動が直ちに無意味になるとすれば矛盾しているとも思える。この自己撞着を無矛盾に解決しようとするならば「意味がわからない」状態に耐えるしかない。答えが出ない時間に耐えるしかない。
 この考え方はコスパタイパとは相容れないだろう。コストと対比される「パフォーマンス」とは計測可能でなければならず、よって目的も意味も前置されている必要がある。そんな指標をこと人生に持ち込んでしまえば、コスパ最強の無意味な生涯を送ることになろうものの。
 そういうものはゲームの中で割り切って適用すべきである。ゲームとはその試合が終われば存在意義も消滅するようなものであり、だからこそ明確な目的を定めパフォーマンスも測ることができよう。その外側に持ち出してはならないものである。

友達として出会うのではなく、出会ってから友達になる

 人間関係に名前をつけるのもすべて後から決まることだ。
 最初から友達として出会った友達がいるだろうか。たまたま隣の席だったから、同じサークルだったから、何となく話があったからと、友達になった経緯などふわっとしているものだ。
 最初から友として与えられた人間関係があるとすれば、それはやはり友として与えた動機の成否によらず空虚なものになる。その偽の交わりでも何かしら感じるものがあれば改めて友達になることもあろうが、それはあくまでも後置された理由付けによるものだ。

 これは非常に重要なことだ。

誰かのために犠牲になってはいけない

 小説の中ではすべての登場人物が主人公のために存在する。物語のために行動する。しかし人生において、友達は自分のために友達なのだろうか。誰かの成長のために使い潰していい存在があるだろうか。
 すべての人間関係は、まさに本作のように自分とは無関係に配置されており、意味合いも用意されていない。脈絡のある出会いもない。関係も意味もゼロから構築していくものである。それは自分以外の他人が自分のために存在しているわけではないこと、そして自分自身は他人のために存在しているわけでもないことを同時に意味する。
 これは「どう生きるか」に対する一つの答えでもある。自分自身がなにかの目的や他人のために存在しているということはありえない。そのような人生にはきっぱり NO を叩きつけていくべきである。
 もし自分の存在の意味付けを他人の奉仕でしか説明できなかったり、あるいは自分と密接な関係にある人が自分のためには何もしてくれないのだと嘆いているようであれば、もはやその人間関係はこじれたものとなってしまっている。何らかの意味で人間関係依存症(いわゆる共依存)とみなしてもよいだろう。
 ここから自分一人でなんとかすることはほぼ不可能である。熟練した心理士によるカウンセリングをおすすめする。

 誰かのために、人生を犠牲にしてはいけない。

苦しみの意味を耐える

 この作品からもうひとつ「どう生きるか」に応えるとするならば、最初から意味を求めてはならないことに集約されるだろう。答えを求めない、意味を求めない、そして自分の人生の脚本を書かない。そういうのはあとから振り返って後付けていくことだ。

 苦しみの渦中にあるときは、その意味を求めたくもなろう。
 ヨブ記はサタンにそそのかされた神様が敬虔な信徒からすべてを剥ぎ取りこの世の地獄に堕とす理不尽な話である。その経緯の安易な解釈はすべて排斥され、そして最後に救済される理由もわかりにくい。苦しみに意味を見出そうとすればするほど苦しくなる。一旦その意味を手放して、耐えることが必要である。
 大きな出来事でも小さな出来事でも、その渦中にあるときに苦しみの意味はわからないだろう。しかし、作中で眞人が持ち帰った石の積み木のように、小さく何かを残すことはあるかもしれない。
 その積み木をみて、あとからこう思うことがあるだろう。

 ああ、あのときの出来事は、こういうことだったのかと。

 そのような小さな積み重ねを大事にすることが、この映画のタイトルに対する答えなのだと結論づけたい。

そうか、この話もそうなのか

 だとするならば「君たちはどう生きるか」という作品そのものも誰かの人生を描いたものなのかもしれない。おそらくは、宮崎駿自身の。

お気に召しましたらちゃりんとお願いします。メッセージ、感想等お待ちしております。