意味は後付でなければならない

割引あり


 生きる意味について考えないものが人間としての生を謳歌しているとは到底思えないが、生きる意味について考えた末に死んだものが生物としての生を謳歌しているともまた思えない。
 古今東西さまざまな人が生きる意味について考えてきたが、昨今その位置づけが変わってきているように感じる。一言でまとめると、生きる意味があって生を享けたかのように意味の位置づけが逆転しているのだ。
 以下にはっきりと論証するが、生きる意味は絶対に後付でなければならない。生きる意味が先行する生はいずれ生物としての生を喪い、商品として存在することになろう。
 たとえばここにキュウリがある。夏に欠かせない食べ物のひとつだ。このキュウリを浅漬けにして海苔を散らし、ビールとともにつまむのは最高のひとときである。このキュウリは、ビールのつまみになって食べられるために生まれた。
 もしこのキュウリがネジ曲がっていて、色も悪く、しなしなであればどうだろうか。八百屋の一角に並ぶことはなく、それ以前に流通段階ではじかれて廃棄されていただろう。なぜそうなるかというと、このキュウリがビールのつまみになって食べられるために生まれたからだ。すなわち、生きる意味が先行したキュウリだからである。
 生きる意味が先行していないキュウリ、たとえば野生のキュウリ、彼は選別の過程を経ることはない。確かに栄養状態は農家に育てられるよりは悪いかもしれないが、途中で間引かれたり選別されて廃棄されたりということはない。このキュウリは意味が先行していないから、全うに天寿を迎えることができる。
 一方で生きる意味が先行したキュウリは、生きる意味が達せられなければ廃棄され、達せられれば食べられる運命にある。いずれにしろ、生きる意味が先行したキュウリとは生きる意味の成否如何に関わらず、生きる意味と同時に死ぬ。
 存在の基盤を明確に措定すると、その存在基盤と同時に自身が死んでしまうことは、次の記事で主張したところだ。
 https://note.com/kagakuma/n/n3e2ce44710ec

 もし生きる意味が先行した人間が存在したとしても同様だ。生きる意味が達せられないと判明した時点で廃棄され、生きる意味が達せられれば既に用済みになる。なんの意味があって生まれてきたのかを問い、もしその答えがみつかってしまったならば、彼はその意味とともに死ぬのである。
 これはまさに人間の商品化であり、人間に使役される存在としてその意義を一歩後退させる。
 できちゃった婚で生まれた子は、幸せを願って生まれてきた子より不幸だろうか。その後栄養を与えて育てられ大人になったのであれば、意味が先行しない分だけ自分の生に本来的な意味を取り戻すことができるとさえ言える。まして、最近流行っている「東大に入れるための子供」のような存在と比べれば、確かに教育環境は整っていないかもしれないが、生物として人間としての生を誰かに左右されることなく独立した存在として在り続けることができるだろう。
 望まれて生まれた子であっても、その存在に疑念を発し、もし生きる意味を自身の前においてしまったならば、その瞬間に人間は商品に成り下がる。誰かに認められるために「私はこれこれができる人間であります」と主張した時点で彼は人間ではなく商品になる。しかし、そのような有用性を主張しなくても現在し生きることができているとするならば、彼は真に自分の力で生きていると言えよう。

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