さとり世代は本当に「さとり」と言えるのか問題

「さとり世代」をご存じだろうか。
ゆとり教育から脱却した、「脱・ゆとり世代」として、さとり世代と呼ばれる1990年頃から2005年頃くらいまでの生まれの世代の人々をさす。
つまり、現在の現在の10代半ばから30代前半くらいの人たちを、さとり世代という。

この世代が「さとり世代」と呼ばれる所以は、物欲、金銭欲、出世欲がなく、悟りを開いているかのような世代だからだと言われている。

筆者が接したことのある「さとり世代」は確かに表面上は物欲、金銭欲、出世欲がないようにも思える。
バブル世代のように出世欲にあふれて物欲や金銭欲を見たそうというエネルギーはないし、ロスジェネ世代のように本来得られるはずであった正当な労働対価を取り戻したいというエネルギーはない。

表面的にゆとり世代は、物欲や金銭欲を満たすために、出世欲をあらわにすることが俗世的で無価値のことのように振舞う。

筆者は物事を物質的にとらえ、精神面を軽視する人間を信用していないので、一見すると、さとり世代という世代は素晴らしい世代とも思える。

しかし、筆者が知っている、いわゆる「さとり世代」の者たちと接してみて感じる限りにおいて、彼らは全く悟ってなどいない。
出世欲は表には出さないが、心の奥底では出世欲が強い。
つまり、何の努力もせず、人との争いをしたくはないが、出世欲だけは人一倍強いのだ。

そして、承認欲求がどの世代よりも高い。
それはSNSでの活動に如実に表れており、いわゆる「リア充」といわれる、「実生活(=リアル)が充実していること」を多くの者に認めさせたいという、物欲まみれの金銭欲まみれの出世欲まみれの世代である。
言い換えると、人と争いたくないが、ありとあらゆる物質的な欲は得たいという世代なのだ。
つまり、彼らは全く悟ってなどいないのである。

このような面から、筆者はゆとり世代を「ゆとり世代」というよりは、「無気力世代」と呼ぶ方が正しいと考えている。
だが、単に無気力なだけだと十分に表現できていないことがお分かりいただけるかと思う。

そして、このような性質を持つ彼らを「ゆとり世代」と名付けたことに、現代の左翼リベラル思想によるプロパガンダを感じざるを得ない。
つまり、人と争うことをあきらめ、成長して出世していこうという姿勢をあきらめることを、「悟り」である、つまり、素晴らしいことであるかのように表現している。
「日本人は貧しくて良い」「日本人は競争しなくてよいし、勝たなくて良い」ということを「さとり」という言葉で表現しているようにしか思えない。

国の発展は各世代が時代時代に即した努力をすることによって達成される。
それを放棄することが素晴らしい事かのように表現した「ゆとり世代」というネーミングには、「日本はこのまま没落して滅んでしまえばいい」という悪意しか感じられないのである。

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