裁判官による裁判の判決が正しかったか、妥当であったかはどのように監督されるのか

人間というのは必ず間違いを起こす。
間違いを起こさない人間はいないので、常に間違いを起こすことを前提として行動しなければならない。

個人の行動でも、企業経営でも、なんでも、判断の間違いや、行動内容の間違いなどは必ず発生する。
間違いを起こさないことが良いことのように思われがちだが、間違いをしてしまい、そのことに気づくことで、より良い方法を知る機会にもなる。
「トライ&エラー」という言葉があるが、人間は正に、失敗することを前提にして挑戦しないと、成長しないのだ。

にもかかわらず、日本の公権力である政治や官僚、行政機関などは、失敗したり、間違いをすることを前提としていない。
その最たるものが司法機関、つまり、裁判所だろう。

司法制度というのは、民事裁判であれば、人と人との争いや、企業と企業の争いなどについて、人間である裁判官がどちらにより言い分があるか、どちらの利益を保護してあげれば良いかという判断を「判決」という形で下す。
刑事裁判であれば、人が犯した罪に対する罰をどの程度与えるか、あるいは、罰を与えないことについて、人間が「判決」という形で刑罰を与える。

つまり、司法制度というのは、人が人を裁くのである。
裁く人が人間である以上、間違えてしまうことを大前提にしなければならないのである。
しかし、現在の日本の司法制度において、裁判官が間違った判断をしてしまった場合に、それを是正する制度がほとんどないに等しい。

さらにひどいのが、裁判官が悪意で一方の言い分を聞き入れる形での判決、いわゆる、「裁判官の不法行為」についても、それを裁くことができるのが裁判官だけなのだ。
つまり、裁判官を裁けるのは、裁判官だけである。

身内に対する評価は必ず甘くなる。
身内でなくとも、利益相反の関係があれば、評価は必ず甘くなる。
だからこそ、裁判官を裁ける制度を設けなければならないのだが、日本にはそのような制度がほとんどない。

立法、行政、司法という三権分立の中で、司法は特別な独立的な存在として認められている。
司法が国会や行政機関による影響を受けて、いわゆる政治部門に影響を受けてしまうと、「政治的な配慮」によって、裁判の判決がゆがめられてしまう。
それを避けるために、裁判所の中のことは裁判所だけが決められるようになっているのだが、それは裁判所の行動に「間違いがない」ことを大前提にされているのだ。

裁判所の行為をけん制する、ほぼ唯一の手段として、「最高裁判所の裁判官の国民審査」というものがある。
しかし、これによって裁かれたことのある裁判官は未だに存在しない。
「裁判官は間違えない」「裁判官が悪いことをするはずがない」ということを大前提にした現行の制度は、制度自体に欠陥があると言わざるを得ないのだ。

法律や司法制度などは、一般人にとってとても専門的で難しい分野になる。
そのため、あまり議論されることが少ない。
それに、本来であれば法律や司法制度の当事者から問題提起されることを期待したいところだが、弁護士や裁判官が自分の立場を侵してまで問題提起されることはほとんどないのが現状だ。
だが、放置していてはならない、とても重要な問題があることをわれわれは知る必要があるのだ。

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