多様性を認めるにも限度がある:イスラム教の教義を全て認めたらどうなるか

「多様性」という言葉がどのような陰謀によって世界の支配者たちに利用されているかはさておき、われわれは古くから多様性を認めて生活してきた。

多様性を認めないというのはひいては、一つの価値観しか認めず、唯一許される価値観を決めるために争いが起き、多くの血が流れた後に価値観が決まった後は、逆らう者は殺され、あるいは完全服従を求められることになる。
多様性が認められない世界の究極の姿とは、共産主義独裁体制そのものであり、表現の自由や思想信条の自由は一切認められない世界となってしまうのだ。


日本人は一般的に日本国憲法の精神にある通り、思想信条の自由を理解し、認め合っている。
誰が何の宗教を信仰しようが自由であり、干渉しない。
それが多くの人々が調和して自由に生きていける方法だ。

だが、その理想に上手くそぐわない宗教がある。
それがイスラム教だ。


イスラム教はそもそも民主主義とは相いれない。
しかも、イスラム教徒はどの国に行っても、自分たちのイスラム法を滞在国の法律よりも優先するため、やって良いことと悪いことの基準が一致しないことも多い。
特に最悪なのは、イスラム教原理主義者の場合は「イスラム教徒以外の異教徒は皆殺しにせよ」というイスラム教の教義を発動しかねない危険性があることだ。
近年、日本各地で神社仏閣などがイスラム教徒によって破壊される事件が相次いでいるが、その際に「神の名に従っただけだ」として罪の意識を感じていないのも、そのためだ。

岸田文雄を始め、近年のわが国の国家元首たちはしきりに「外国人を受け入れて多様性を認めよう」などとのんきなことを言っているが、そもそも日本人の多くは外国人よりも自己主張が弱く、外国人が本気で「俺たちの文化を受け入れろ!多様性を認めると言っただろ!」と強硬してきた時に日本人が自国文化を守れる保証はない。
既に北海道、沖縄、大阪などの一部地域を見れば、多数派となった外国人の意のままにされている地域では多数派の空気に流されるがままとなっている状況が存在することから、それらの地域は日本の未来予想図のようなものだろう。


多様性を認めて、自分たちとは異なる民族、異なる文化を受け入れるのが良いこともあるだろう。
だが、それは必要なことなのではなく、自国文化を十分に守れて、自分たちの主張が十分にできるという条件がそろった状態で、自分たちが相手の文化を受け入れるかどうかを相手と十分に対等に話し合った結果、自分たちが自ら受け入れようと思った場合に限られる。
自分たちの文化を守る体制や対等に話し合えるような状況などもないまま、自分たちの文化の事などを一切考えずに、「ただただ異文化を受け入れろ」という命令に従って異文化を受け入れるのは、グローバリストが進める多様性という文化破壊工作にやられているにすぎないのである。


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