映画の感想3

直近観た映画5本の感想です。


『ブラックパンサー』 ★★★☆☆

マーベルの黒人ヒーロー映画。
アメコミものはめっきり観なくなってしまっていたが、黒人の製作陣で作られた黒人のヒーロー、しかも部族SF的なイメージ(最近研究中)もあったので鑑賞することに。

なんだか変な感じがして面白かったです。
最初の印象ではもっと政治色や哲学色が強いのかなと思っていたらいい意味で内容が薄っぺらくて「黒人のエンタメ映画が当たり前だった世界」を想起させられて面白かった。(これから本当に当たり前になってほしいですね。)脚本が割とガバだけど、全体通してある種の無邪気さというか「これ、かっこいいよなぁ!」みたいな楽しんで作った印象を受けてほっこりしました。

映画の全体像は薄っぺらいが、各要素には現代的な視点で考察しがいがあるかも。
例えば、舞台のワカンダは超技術と”王政”によって平和を維持している。王政で平和なんて現代じゃあまり考えられないが、これは各部族がそれぞれにトーテムを持っていたり、王はブラックパンサーという超然的な力を継承していたりと、ある種の政教が分離されていないことと関係があるのではないか。これによって倫理や道徳は(私たちみたいに)民主的人間に委ねられることなく、祖霊、つまり超人間的な存在による道徳管理が行われる。ただそれだけであるなら古来からある祖霊信仰と変わらないが、ワカンダにはその超人間性を担保するヴィブラニウムという超技術鉱石がある。この石の持つ超然的な力は他者に伝達可能な”科学”としてその”超人間性の人間からの外在”(←変な言葉)を強く担保してくれる。

他にも考えてたら面白かったのがワカンダの街並みにグラフィティがあったこと。グラフィティってHIPHOPのカウンターカルチャーから出てきたものなんじゃないかと思うのだけど(この認識が間違ってたらすみません)それが平和を保ってきたワカンダの中にあるのはどういうことなのか。まあ平和を保ってきたと言っても全くみんな幸せ〜ってわけでもないと思うからそんなに突っ込むところでもないのかもしれないけど。単にワカンダ外から輸入してきたのかもしれないし、自然に湧き上がってきたのかもしれない。

とにかく、こんなようにあらゆる可能性に対して開かれた作品だと思います。


『ザ・マスター』 ★★★★☆

前回感想を書いた『インヒアレント・ヴァイス』の監督ポール・トマス・アンダーソン(PTA)の作品。寄りの画が多いのは監督の好みだったのですね。

ヤバい奴がヤバいカルトの中にやってきてみんなを困らせる話、と書いたらかなり語弊があるが、そのヤバさ(=世間からの逸脱)について考える映画かなと思った。

主人公のクエルは自分の本能に抗えない、じっと座ってられない、すぐに発情しアクションに移す。言ってしまえば動物だ。それに対してクエルを”飼い”矯正しようとする飼い主マスターランカスターは、人間は動物と明確に違い神聖な存在であるという自説を説くカルトのトップである。
クエルとランカスターはお互いに惹かれあっていく。それは二人がそれぞれに自分の穴を埋めるような存在だからだ。クエルは制御が効かない自分をランカスターに制御してもらいたいと思っている。本人は自覚的ではないと思うが本能的にそのような穴を埋める存在を求め、”陸から離れたゆたう船”の上でランカスターに出会う。ランカスターの方は、普段は自身で抑え込んでいる動物性の化身であるクエルの面倒をみる。ランカスターも意外と癇癪持ちで自分の説にいちゃもんをつけられ言葉に窮すると暴言をはいたりする。ランカスターは自分の抑圧しているものが気持ちよく表出しているクエルを気にいる一方、その”動物”をコントロールし、矯正したいとも思っている。

二人は一時、互いの穴を埋め良きパートナーとなっていくかと思われるがやがて決別の時がやってくる。
バイクで荒野を爆走する謎の遊び。(そもそもこんな、スピード狂的な遊びをしてる時点でランカスターは享楽的な性格なのだが)ランカスターはちゃんと自分の宣言通りに目的地に言って帰ってくる、つまり自制が効くのに対して、クエルは今までのランカスターの調教虚しく行ったきり帰ってこない。飼い犬の紐を離したら山へ駆けていって戻ってこないのと同じだ。

数年後、クエルはランカスターに呼び出されて再開する。ここで二人の世界がようやく合致、とは言わずまたもクエルは一人ふらふらと”漂う生”を続けている姿が描かれる。(対照的にランカスターは陸にでかい学校を構えている)

マイノリティがカルト的マイノリティの中で居場所を見つけたのが『ミッドサマー』だとすると、『ザ・マスター』はその逆の話であり、結局行き場をなくした本能としてのクエルはどこにも属すことなくドリフトしていく。
ほのかに失恋とも思えるようなビターエンドは心地よい。

とまあ、感想なのかなんなのか。
『インヒアレント・ヴァイス』では「アップのカット多すぎダメダメ」みたいなことを書いたが、今作の場合は閉塞感やマスターの洗脳的な言動に対していい効果になっていたと思う。マスターと出会う前の前半の畑を走るカットは”広く”大きく開放的に写され、時折りインサートする”船”が作る波の軌跡も”広く”美しく、別れの場面の荒野の場面もとびっきり”広い”画面作りになっていて、引き寄りが作品の内容とマッチしていたと思う。それでもまあ顔のアップ多いけど。

全体が(お話的に)ぼやっとさせるような作りになってるのでラストの方でもう一箇所でもピントが合う瞬間があると嬉しかったかな。
色々考察しがいがある映画だと思うので、また知識を蓄えて再鑑賞してみたい。特に戦争に関しての知識がもっとあれば倍は楽しめたかも。

監督の他の作品もきになるので見てみることにします。


『聖なる鹿殺し』 ★★★☆☆

民族学的オカルトを求めて見だしたのが、どうもこれは倫理映画だったらしい。全体通して役者は無表情であり画面も引きが多く異様に客観的に作られている。まあ、今時の映画の真逆みたいな作りなのだが、それをこれでもかと徹底している

そもそもこんな作り方をしていることがこの映画が倫理映画であることを物語っている。つまり、「感情移入なんてさせねぇぞ!馬鹿ども」という監督の強い意志がで「感情移入なんて馬鹿なことしてねぇでここにある状況を読み解いて自分で考えやがれ!”これはメタファーだ”」という声がありありと聞こえてくる。これが難点。

引き絵の演出や無表情は緊張を強いるので”サスペンス”、”ホラー”としてはいいのだけど、結局これは倫理映画なので肩透かし食らう感は否めない。
そもそもホラーやサイコサスペンスとして見始めてしまうのは”呪い”要素が強いからだ。(私も結局そこに惹かれて見たのだ)
じゃあハンムラビ法典、トロッコ問題の組み合わせみたいな倫理映画に呪い的な要素が必要だったのか。これはむしろ、倫理映画だからこそ超合理的な呪いを事件の基盤に置く必要があったのだと思う。科学的、合理的な理由で家族に厄災を降らせてしまうと当の問題への脇道の解決策がいかようにも取り出せてしまう可能性があるからだ。
トロッコ問題で考えると、「そもそもその状況が意味不明」「レバー以外の方法でトロッコ止めろよ」「大声で呼びかけろよ」「石投げて危険を知らせろよ」「そもそも線路に立つなよ」「ヒヤリハットしろよ」...エトセトラ
「それ本質見えてないよね。あたま悪」なんて自称頭いい人に言われそうな回答が続々出る自体が発生してしまう。
それをうまく宙吊りにするために超合理である”呪い”を持ち出してきたのが今作なのだと思う。そういう意味ではいい”逃げ方”なのだが、多分そこはあんまり伝わらないと思う。そもそも倫理と合理の関係が複雑で、世間一般では仮言命法が支持を得ているようにも思うのでより一層。
そうしてホラー、サスペンスとして見始めるのだが、特に大きな展開はなく予見通りに作品が終わるので消化不良なのだ。(そもそも消化不良させるのが目的なようにも思う)

キューブリックの映像と比較されているようだが、これは倫理映画なので実はあまりキューブリック的な映像享楽はない(おそらく意識的に省かれてる)。映像自体は綺麗だがストイックすぎる画面なので正直尺はもう少し短くて良かったと思う。内容的にも上記の理由で肩透かし感が否めないので特に。

これは私の被害妄想なのだが、
この作品あまりに客観性に対してストイックすぎるゆえに攻撃性もはらんでいると思う。「この問題に気づけない、考えられない、読み解けないあんた、馬鹿じゃない?」という感じで。これは街に貼られた途上国支援や動物愛護などの道徳的な広告に近い。「アフリカではうんぬんカンヌンひどいことでこれを見過ごすのですか?あなたたち!不道徳です!」というメッセージを反語的に受け取ってしまう。本人たちの意図するところではないのは重々承知で。

しかしマーティンの演技はマジで怖い。そこに★2つ。客観性の突き詰めに★1つ。(映像享楽的なものが少ないので)もう一回見るかは微妙だけど、人に勧めると思います。


『ディアボロス/悪魔の扉』 ★★★★☆

『聖なる鹿殺し』で得られなかった呪い的なエンタメを求めて見たらこっちも倫理映画だった。こっちの呪いはキリスト教由来。ただこちらはエンタメ倫理でとっても分かりやすく今節丁寧に『鬼滅の刃』くらいセリフでテーマを教えてくれる。その丁寧さがちょっと白けたので-☆一つ。

連続勝ち星にこだわって罪人を無罪にしてしまった弁護士が、ニューヨークの一流大手事務所で倫理を踏みにじる欲望に飲み込まれていく。

そもそも裁判は人の罪を罰するという「神ごっこ」であり、そこで倫理を無視して勝利にこだわる間違った弁護人が実は欲望や堕落の象徴であるサタンの息子であり、父親の裏工作により欲望の粋である不動産王の罪を無罪とし世界を欲望で満たそうとするが、息子は自由意志で自らサタンの継承者となることを退け人道を獲得する、はずが、、、。そして、その事件の舞台が資本主義の象徴ニューヨークで行われるという、超直球ど真ん中。
なんというかここまでズレのない物語が作れるんだなという印象。そういう意味ではテーマ(欲望と倫理)、設定(罪が裁かれる場所、裁く人)、舞台(NY)というものを丁寧に合致させた素晴らしい仕事。それでいて物語の展開が読めない作りになっているので飽きずに見ることができる。これは『聖なる鹿殺し』の肩透かし感とは逆な感じがある。

ラスト、記事にされることを喜ぶキアヌにおいおいそれじゃ降り出しに戻るやん!って思ったらしっかり最後にサタンが出てきて余念なしというね。
モーフィングしてアルパチーノの顔に変わるという丁寧さ。個人的な趣味では記者がカメラ目線で微笑むくらいの方が好みだったかな。

時代的に古い感は否めないけど、ストレートな映画として評価したいです。


『メッセージ』 ★★☆☆☆

テッド・チャンの原作は未読。友人から私の人生のSF『スローターハウス5』との類似性を教えてもらったので見ることに。類似性は、無時制の部分だけだった。

なんか一個一個の要素はいいけど全体のバランスが悪いというか痒い所に手の届かない映画だったかな。
ファーストコンタクトものとするとヘプタポッドたちの言語が解明されていくディティールやハラハラ感が少ないし、未来で夫となる物理学者の存在感は薄いし、中国将校とのタイムパラドックス的な会話もなんかぼやっとしてるし、人間物語とするには感情の置きどころが分からないしで、ああ小説読めってことか、、となってしまった。

焦点が定まってない感じが残念。
その上で要所要所でガバ脚本なのがな。中国を説得すると連鎖的に他の国も情報共有しだすところがちょっと無理くりというか説得力がないし、ヘプタポッドが武器と言語を間違えたのもどうしてもご都合的に映るし。

人類は因果的な思考=言語だよね→宇宙人やってきました→宇宙人に非因果的な思考=言語を教えてもらいました→自分の未来もわかっちゃいました→悲しいことが起きるのがわかりました→それでも同じように生きていきます→感動?
んーちょっと分からない。娘が死ぬという悲しい結末が待っていても私はその道を選ぶ、というのは永劫回帰的でエモいのか?そもそも永劫回帰はエモいのか?分からん。結局それは因果的な思考においてエモいんだよね?悲しい”結末”といっているのだから。もちろん”過程”を愛そうということなんだと思うけど、”過程”も任意の因果で切り取って遡求的に把握されるものじゃないのか?(メロディをゲシュタルトで理解するのと似ているかも。音楽は頭から順番に理解していくものではないと思う[自論])。原作では変分原理に触れてるらしいので(映画でも触れてた?)そこらへんの理解の解像度が上がるとわかるのかな。んー。とにかく、その無時制に飛び込んだことでの主人公の思考や感情がよく分からなかった。

小説では言語学的なことや物理的なことがもっと細かく書かれているんだろうと思うのでいつか読んでみたいと思います。

『スローターハウス5』とわざわざ比較させてみよう。もちろんヴォネガットを贔屓して。
『スローターハウス5』は前提として無時制が導入されており『メッセージ』はその獲得、それからの物語といったところが大きく違うかな。
『スローターハウス5』では先の『聖なる鹿殺し』の”呪い”について述べたような感じで「無時制」の理屈を宇宙人で”宙吊り”にしている。いわば作品公理みたいなものが設定されていて、それは作者に都合のいい前提条件になるが作品内で書くべきことは少なくなり、それゆえテーマが強くなる。そうして”諦念”というものが際立ってくる人文SFとなり得ている。そういうものだ。
対して『メッセージ』での「無時制」はまず説明を要するものでエンタメ要素のあるアイテムでもある。その上でそのアイテムをヒューマンドラマに仕立てあげようとしている。が、やはりディティール、説明の弱さがその連結を甘くしているように思う。「娘とのやり取りは未来の出来事だったんだ!」という驚きまでは持っていけてもそこからエモまでうまく繋がっているかというと微妙。もちろんエモだけが作品の全てではないが、そこがゴールとして設定されているようにも思うので。

原作を読んでないのでもうこの辺にしておきます。

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