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in putとout put

今更ながら、AIによる添削をしてみようかな、という気になった。(何事も取りかかるまで時間がかかる)試みたのは以下の文章だ。

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高校時代の話である。

俳句か短歌かを読んで、学習前に感想を書かされた。その中から幾つかピックアップして紹介されたのだが、自分の感想が読み上げられた時、他の人の感想とはアプローチの仕方が違っていて恥ずかしく思ったことがある。

端的にいえば、他の生徒がほとんど分析的な解釈だったのに対し、自分が書いたのは作品からイメージした心象風景だった。他の人に比べ、自分の感想があまりに幼稚に思えて赤面したのである。

何かを鑑賞する際、いまだに出てくる言葉はイメージ的なものである。これは自分の思考パターンがそうなってるので仕方がない、と思うようになった。ものの本によると出力の仕方がイメージ的なものらしく、困ることと言えばそのイメージが他の人にはなかなか伝わらないところにある。

感想とは、感じたこと思ったことを書くものだからこう思った、と書くことは別段間違いではない。解釈とは思ったことの根拠を示すものである。

①作品→②解釈→③心象風景(イメージ)

ここで②を共有しないと③は理解できない。ゆえに、②を経ずに③となる自分の感じ方は人によっては理解できないものになる。

全てがそうなるわけではない。作品に深く没入するとイメージがブワッと浮かぶ。作品と自分が一体化したような共鳴が起こると目の前に映像が浮かぶのだ。自分の理解の仕方というのが「一体化」であるのだと思う。客観的に観て解釈する、という作業が不得手なのはこの辺りにあるような気がする。

本を読むのが好きだ、と言う人は物語に没入できてしまう人だ。多分、自分と同じ思考回路を持った人だと思うのだがいかがなものでしょう?

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これを「フォーマルな文章に手直ししてくれ」と依頼した結果が次のようになる。行がえはしてくれなかったのでこちらで手直し。

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高校時代のエピソードに関して述べさせていただきます。

高校時代、俳句や短歌を読んで、学習の前に感想を書く機会がありました。その中からいくつか選ばれ、紹介されました。自分の感想が読み上げられた際、他の人の感想とは異なるアプローチをしていたことに恥ずかしさを覚えました。具体的に言えば、他の生徒の感想はほとんどが分析的な解釈でしたが、私が書いた感想は作品からイメージした心象風景でした。他の方々と比べ、自分の感想が幼稚に感じられ、赤面してしまいました。

私は未だに何かを鑑賞する際、心に浮かぶ言葉がイメージ的な表現であることがあります。これは、私の思考パターンがそのように形成されているため、どうしようもないと考えるようになりました。文献によると、私のアウトプットはイメージ的なものであるとされており、唯一の悩みはそのイメージが他の人々にうまく伝わらないことです。

感想とは、感じたことや思ったことを書くものなので、私がこう感じたと述べることには問題はありません。一方、解釈とは、思ったことの根拠を示すものです。具体的には、作品→解釈→心象風景(イメージ)のような流れです。私の感じ方は他の人々と共有されない限り、心象風景を理解することはできません。したがって、作品と解釈が同時に起こる私の感じ方は、他の人々には理解しにくいものとなるのです。

すべての場合がそうだというわけではありません。作品に深く没入すると、イメージが突如として浮かび上がることがあります。作品と自分が一体化し、共鳴が生まれると、目の前に映像が浮かび上がるのです。私の理解の仕方は「一体化」だと思っています。

客観的に観察し解釈するという作業は、私にとって苦手なように感じられます。本を読むことが好きだ、と言う人々は、物語に没入しやすい傾向にあります。おそらく、私と同じ思考回路を持つ人々だと思いますが、いかがでしょうか?

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あ、フォーマルってそういうことだったの、というのが感想。もっと格調高い文章にしてくれるのかと期待してた。原文を超えるもの凄い何か、というのは無理なのか。素材を超えるものはできないものなのか。

使いこなすまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。できるなら、書き手もびっくりするくらいの原文越えをしてくれたら心より驚嘆する。






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