嗚呼、当てにならず
記事を読んでいて、この人は男性だろう女性だろうとなんとなく思う。けれども外すこともままある。
男性だろうと思っていた人が女性だったり、女性だろうと思っていた人が男性だったり。別に相手が意図的に隠していたり騙していたりしたわけではなく、自分が何となく思い込んでいただけなのである。自分の感覚なんて当てにならないものである。
俳句を嗜む人なら一度は手に取ったであろう藤田湘子の俳句教本。バカな自分はずっと「ふじたしょうこ」と読んでいた。威勢のいい婆さんが書いた本だとずっと思っていた。ズバッと言い切る気持ちの良い婆さんだと。
ある日、「しょうこ」ではなく「しょうし」と読むのだと知った。水原秋桜子の弟子だから「しょうし」と読ませてるのかと思った。なるほどな、と思う。この辺りで気がついてもいいものだけれど、まったく気付かない。
この小気味の良い婆さんは他にどんな句を作ったのだろうと検索してみて、やっと知るのである。
藤田湘子は男性だったのだ。
ああ、だからと、思い至る。師と論争をして「愛されずして沖遠く泳ぐなり」の句を作ったのかと。
自分の頭の中では師に己の才を持って挑む女性の姿があったが、女は男に戦いなぞ挑まないのだろう。懐柔はすれども、特に師匠には。こんなことを書くと偏見だと言われそうだけれど、男に戦いを挑むのはやはり男なのかも知れない。男も女もなくその人「個人」でしかないのかもしれないけれど。
何はともあれ、このセンセの書いたものは明快でわかりやすい。作句に詰まるとなんとなく手に取ってパラパラめくり拾い読みする。これもまた出会いの一つだと思っている。
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