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目的のない記事を書いている

自分の記事はほとんど目的がない。

旅をしてこんな素敵なところに行ったから皆に知らせたい、とか。こんな面白い企画をしてるからやってみようよ、とか。こんな素晴らしいものを売ってるから購入して、とか。こんな記事を書いたから読んでくれ、とか。

何もない。

「愚者」のようなもの。何も持ってはいないけれど、それでも幸せ、という感じだ。

意図的、というわけでもないけれど自分にとって不必要な情報を遮断している。人付き合いも必要な場合だけ。おかげで平穏で快適。

デメリットと言えば、情報や読書への飢えがなくなること。何か心にざわめきがないと知識を得ようとする欲求が減る。インプットがなければアウトプットもない。何か書きたいと思っても、何もないので、ほとんどエンジンを空ぶかしするようなどうでもよい内容になる。

極端に暑いか寒いかすると、途端に記事数が増える。何でだろうと思っていたが、答えは簡単。単に外出しなくなるからだ。書いて時間を費やす。なんの工夫もそこにない。工夫がないから上達しない。

ここ数年、流行病のせいで美術館にも行っていない。移動時間の果てしない長さ、行き来する人の多さ、自分自身はもとより持病を持った家族に絶対感染させるわけにはいかないことなどを思うと、メリットよりデメリットを考えてしまう。だから絵画等への渇望はある。反面、近距離にはよく出かけた。それが良いのかどうかはわからない。ただ、地元に貢献しただろうとは思う。

人が細々と作り上げた作品を見るのが好きだ。写真であれなんであれ、少しずつできあがっていく過程を見るとうっとりする。料理もまた然り。自分にはできないことだから。誰にでもできる、というのは間違いで、その人にはできるが他の人にはできないことはある。やろうとしないから、と言われそうだが、やろうと思わないから。ただ、憧れていたいだけと思うのは贅沢なのかもしれない。

子を成した人が「今の人生に満足しているが、次は子を産まない人生を送りたい」と述べた本の宣伝を見た。子を産むことと何かをひきかえにした、という気持ちがあるのかもしれないな、と思う。子を産まなかった人が、次は子を産みたいと願うのと対照的だ。これは一体何なのだろうと思う。単なるないものねだりなのだろうか?結婚して家庭をつくれば幸せで、あがりの人生双六はもうどこにもないのかもしれない。

俳句はいいのが思いつかない。他の人の作品を見て、ああ、すごいもんだなぁ、とても自分には思いつかないやと思う。手直しを重ねてもどうにも気に入らない。小休止。何もないところであがいても泥をかき混ぜてるようなもので良いものは降ってこない。どこからか何かが降ってくるのを待つしかできない。俳句のことばかり考えていられない。たえず抜け道を考えて窮屈にならないようにする。

自分を追い込まず抜け道を作る。追い込まれて良いものを作る人もいるけれども、リラックスしている時にいろいろ浮かぶタイプだ。自分の良い状態を知ってるのが大切。自分のことはなかなかわからない。

今は夜中に窓を全開にして(田舎ゆえ隣家とはかなりの距離がある)涼しい風を取り入れながら、窓から入り込む月の光の中、早々と鳴く虫の音に耳を澄ませるのが好きだ。そんな生活が自分にとっては快適。自分に合っている。

人はいつも何らかの刺激が欲しくて汲々として彷徨っている気がする。一体何が欲しいのかと思う。それを求めてる時が一番幸せな時間なのかもしれない。

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