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現代における”資本論”の解釈

 私たちが当たり前だと思っている”資本主義”は時代の流れとともに、段階が進んできている。何も考えず現代を生きてよいのか?そんな疑問を、マルクスの資本論に基づいて考えました。

目次

①資本主義の性質

②資本制の成り立ち

③資本制の現状

④今後のビジョン



①資本主義の性質

そもそも資本制とは、物質代謝の大半を商品の流通および消費を通して行われる社会のことを指す。これを‘資本論’では、「商品による商品の生産」と表現される。ここで理解しておかなくてはならないのは、富と商品の違いである。富がいつの時代でも普遍的なものであるのに対して、商品は資本制に特有である。さて、資本制を考えるうえで最も大切な性質は、すべては資本の増殖のために行われるということだろう。この性質こそが資本制の大元であると言える。資本制においては資本の運動に関して、G-W-G’(G:gold,W:ware)という式が成立する。この式においてG’は売買によって付加された部分であり、これを剰余価値と呼ぶ。剰余価値にはその源泉によって、三種類に分けることが出来る。①労働時間の延長から得られる剰余価値を、絶対的剰余価値と呼ぶ。②必要労働時間の削減によって得られる剰余価値を、相対的剰余価値と呼ぶ。③イノベーションによって得られる一時的な剰余価値を、特別剰余価値と呼ぶ。資本の増殖性質と剰余価値の式より、資本制では剰余価値の生産を追求することが真の活動であるといえる。しかしながら、原則的に等価交換を行っているはずの経済活動で、なぜ剰余価値を生み出すことが出来るのか、それは労働の仕組みに理由がある。そもそも剰余価値は、労働力によって生産されるものである。この労働力が持つ使用価値が、労働力に対する交換価値を上回るからである。したがって以下のような式が成り立つと考えられる。   
労働力がもたらす価値=労働力の交換価値(賃金)+剰余価値 (1)
上記の式が剰余価値を生み出す仕組みである。また、上記の労働力の交換価値は、労働力の生存および再生産に必要な大きさに収束すると考えられており、この価値の大きさを必要労働と呼ぶ。一方で剰余価値を生み出す労働のことを剰余労働と呼ぶ。以上より、資本制においては、その増殖の性質のために、剰余価値を生産し続けなくては社会構造そのものを維持することが出来ないと表現することが出来る。

 

②資本制の成り立ち

そもそも資本制が萌芽するには、本源的蓄積が必要である。マルクスの資本制の前史の考え方は、まずは一定の資本が将来の資本家のもとに積み上がり、自由な労働力と出会うことで資本制の回転がスタートする、というものである。
この資本の積み上がりのことを、本源的蓄積と呼ぶ。では、日本における本源的蓄積はいつなのだろうか、答えは松方デフレの時代(1881~1885)である。この時期に行われたデフレ政策の影響によって農作物の価格が下落し、農村が荒廃した。これによって自給自足的な生活が出来なくなった人々が、自由労働者(賃金労働者)となり都市部に流入した。この流れが
日本における本源的蓄積であると言える。このように資本制には始まりがある、つまり歴史性が存在すると述べたマルクスは、起源がある以上、資本制には終わりがあるととらえた。さて、本源的蓄積により生まれた資本制は、その増殖の性質にしたがって剰余価値の生産を開始する。絶対的剰余価値の生産は、労働時間の長さに依存しているためもちろん限界がある。したがって、資本は相対的剰余価値の追求、すなわち生産力の増大を追求し続けることになる。その後、さらなる相対剰余価値の生産のために、フォーディズムが生じる。これは労働者への賃金を底上げし、富裕化することによって市場を拡大するというものである。そして、フォーディズムが成熟するといよいよネオリベラリズムが幕を開けることとなる。


③資本制の現状

現代まで、我々は資本制を維持するために生産力を増大させ、相対的剰余価値を生み出し続けてきた。しかしながら科学技術の成熟によって、その手段がなくなりつつある。その結果として横行しているのが、端的な賃下げや外国人労働者の活用などの労働力のダンピング、つまりは絶対的剰余価値追求への回帰である。また生産力を上げることは、労働の交換価値を下げることと二律背反であり、物質の豊かさと人の生活の豊かさは必ずしも相関するわけではないと言える。技術革新は人々の幸せのために起きるのではないのである。この流れこそが再分配機構の逆利用や都市による収奪、教育の商品化など資本制に歪みを与え始めていると言える。では、資本制によって、生産力を爆発的に増大させ物質的な豊かさをもたらしながら、その中で貧しさを作り出すという現状を、なぜ労働者は受け入れているのだろうか。それは労働者の魂が資本によって包摂されているからである。資本制が加速するにつれて、包摂は拡大を続けてきた。最初は形式的な包摂に始まり、その後実質的な包摂となり現代では魂をも飲み込もうとしている。資本制とは資本による労働者の支配という点で、奴隷制および封建制の側面を持っている。これは人間の基礎価値を軽視し、剰余労働を強いることであり、資本による労働階級への攻撃である。 


④今後のビジョン

上述した資本制の問題点は、ネオリベラリズムによる‘上から下への階級闘争’であり、これに対抗するには労働階級による階級闘争を再開する他ない。この階級闘争の目的は資本制を打倒することではなく、等価交換を廃業させることである。これは端的に言えば人間の権利を主張すること、人間の基礎価値を信じることと表すことが出来る。この基礎価値とは個人の能力やスキルに依存するものではない。「私は能力のない人間だから、価値がない」と考えてしまう人は、資本による魂の包括が進行している。これは人間の感覚的な部分に依存するため、感性の再建を行い、人間の尊厳を取り戻さなくてはならない。
 資本制の維持のために人間の基礎価値は切り下げられ続けている。生活水準の低下を強いられたときに、反旗を翻すことが出来るか、自分にとっての必要労働の‘必要’の価値を守れるかにかかっている。これは決して他人ごとではない、今一度現状を見つめなおし、確かな感性を取り戻すことが必要である。