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最後の乾杯

お金のない僕たちは晩杯屋でよく乾杯をしていた。お互い障害を負って暮らしはままならない。そんなお互いの人生を励ましあうようにビールを飲んだ。日々の疲れを酒と会話が癒した。コロナが蔓延しだしてから僕たちは会っていない。電話でお互いの近況を話したりはするが、それだけ。お酒自体を飲むことも減った。彼女と最後に乾杯したのは今年の春に公園でお花見ができなくなり、しょうがないから家でテレビに桜の映像を映して、ビールを飲んだ時だ。家で花見をするのは不思議な感覚だった。最近になって僕は血圧計で血圧と脈拍をはかるようになった。僕の脈拍はいつはかっても100を超えている。僕はいつ突然死してもおかしくないのだなと意識するようになった。だから家で花見をしたことが僕の最後の乾杯になるかもしれないし、次の乾杯ができるかもしれない。いずれにしろ、これが最後の乾杯になるかもしれない、という心づもりはしていよう。悔いなく生きようと思うようになった。

僕たちの世界から乾杯が消えて半年がたった。未来では人々は酒席を共にすることはなくなるのかもしれない。コロナは僕たちの心に密やかに忍び込み、僕らを隔てる。隔たりはどんどん大きくなりやがて人は独りになる。いつか、アーカイブとして吉田類の酒場放浪記が国立博物館に記録されるのかもしれない。僕たちは乾杯の絶滅した街で乾杯を求めて彷徨うのかもしれない。

もしくはAR技術などが発達して、それぞれが一人でいながら集うことができるのかもしれない。みながそれぞれの場所でそれぞれの酒と肴を持ち寄り仮想的な満天の星空の下で乾杯をする。古代バビロニアの時代から人は酒を飲んできた。僕たちはこれからも酒を飲むだろう。人間の精神を解放するものとしての酒を。コロナが人間社会にどれだけ侵入してきても、僕たちは乾杯をやめない。

路地裏の野良猫はいなくなった。近所の本屋もなくなった。街の居酒屋の賑わいもなくなった。街も人もどんどん変わっていく。変わらないものはきっとないのだろう。それがたとえコロナの影響であろうと僕たちは変われる。困難を乗り越えればよりよい未来が開けているはずだ。どんな形であれ再び僕たちが乾杯できるようになる日は必ずやってくると僕は信じている。たとえ僕がそこにいないとしても、友達の中に最後の乾杯の記憶は残る。そしてその友達がいなくなってしまっても、その友達と最後の乾杯をした人の中に記憶は残る。そうやって僕たちは太古の昔から最後の乾杯を繋いでいく、忘れないために。「さよならだけが人生だというなら、また来る春はなんだろう」と寺山修司は言った。さよならの後にも春はやってくる。乾杯しよう。一人、残された、あなたと僕で。

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