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ルナあるいは生成変化するダンス

アマゾンの森林火災について。アマゾンは地球の酸素の20%を生み出している、地球の肺と呼ばれている、だから地球規模の影響があるという。僕はアマゾンに住むルナという部族のことを想った。ルナにとって森は世界だ、世界が焼け落ち森の思考が失われていくのを見てルナは何を想うのだろうか。森をただの酸素を供給してくれるもの、とだけ考えることが人新世を引き起こしているようにも思える。
 僕は子供のころアマゾンが大好きだった。見たこともないカラフルな蝶やカエル、トカゲなどが潜む森をよく空想していた。夏休みに山などにいくと草むらの中に潜むトカゲを発見しようと夢中で探し回っていた。
「私は生み出すのではない、見出すのだ。」とピカソは言う。ピカソは子供の目を持って世界を見ていた。子供になること。女性になること。動物になること。そうすることで新たな発見は生まれるのだろう。人間(man=男)であることを乗り越えることは可能か。そうすることで見えてくる未来はどんなものか僕は空想してみる。あるいは、それは眠れる蓮のような世界か。
 ドゥルーズは生成変化を言祝ぐ。人間(man=男)の生み出した秩序に逃走線を描きその秩序に亀裂を走らせるようなありかたを言祝ぐ。そこには野生の思考が息づいている。
 子供になる、女性になる、動物になるとはどういうことか。それは決してそれらを模倣することではないと僕は考える。台風の日に僕は近所の川を見に行ったことがある。雨風は強く木々を揺らし僕は台風になった。雨が降る、傘を差さずにそれを引き受ける。そうすることで雨になる。その存在を「引き受ける」と言うこと。
 エジソンが電球の寿命を延ばそうと、フィラメントの素材を探していた時に《たまたま》手にした竹を使ったところ驚くほど長く電球が光り続けたエピソードは有名だ。幾千の失敗を経た、偶然による発見。つまり発見とは偶然なのだ。
 竹がフィラメントになる、のは偶然性にゆだねられていた。エジソンがそれを《発見》するまでは。生成変化と偶然性それが発見において重要になってくると思われる。
 アマゾンの森が失われることで、そこにある豊かな智慧は失われる。確かに空気というのは重要だと思うが、なぜそのようなことになるのか、と考えることそれが肝心なように思われる。森を開発の対象とだけ捉えていること、つまりはお金になるということ、役に立つということ、そのような価値観がルナの世界を燃やしている原因だ。私たちはその価値観ときっぱり決別しなければならないと私は思う。森に入ることで森の思考を感じること、ジャガーになること、世界から野生の思考が失われることで、我々は発見を失う。すべてが管理された、プログラムのような都市で発見は可能なのか、全てが砂漠化した世界の中で発見は可能か、答えはノーだと僕は思う。
豊かな多様性が守られてこそ、発見は可能なのだ。
まとめよう、発見に必要なのは、生成変化、偶然性、多様性、この三つが合わさった時に初めて見出される。
ゴダールは言う「正しい映像ではない、ただの映像さ。」と。発見についても同じことが言えるだろう、「正しい発見ではない、ただの発見さ。」と。現にニュートンが万有引力の定理を発見した、だがアインシュタインが相対性理論を発見してしまえばニュートンの発見は正しいものではなくなる。そうして我々は事物そのもの、の周りをぐるぐる回っている。
数学的に事物を捕らえようとすること。どこまでも一義的な在り様。それが事物それ自体なのだろうか。数学者は数式で世界を理解する。それは数学者の世界だ。ルナは野生の思考で世界を理解する、それがルナの世界だ。数学における無限と、野生の思考における無限。双方を掛け合わせることは可能か。数学者がルナになることは可能か。大人が子供になることは可能か。事物の周りを生成変化しながら踊るダンスのように存在の輪は回る。そこに逃走線が走るとき発見は起こるのだろう。

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