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大学院時代の話

前回のnoteで僕は「一度、陸上競技を引退しかけたことがある」と書きました。今回はその時の話をしようと思います。

簡単に説明すると、前所属の実業団チームから戦力外通告を受け、母校である順天堂大学の大学院に入学し、約1年半もの間、所属フリーで競技を続け、現チーム(プレス工業)に入社、入部した、という経緯のお話です。

僕がこの2年間をどんな思いで過ごしたのか。

今まで誰にも話していなかったことも含めて、今回、思い切ってお話ししようと思います。

戦力外通告

戦力外を告げられたのは2014年1月末、僕は26歳で社会人4年目のことでした。それは何の前触れもなく、告げられました。僕は本当に頭が真っ白になりました。この場所で「まだまだ強くなれる」と本気で思っていたからです。

その時に与えられた選択肢は、「競技を引退し、サラリーマンとして会社に残る」か「競技を続けるためにチームを移籍する(ただし、自分で移籍先を探す)」の二択でした。僕と同じように戦力外を告げられた選手は、会社に残る道を選びました。でも、僕はこのまま競技人生が終わってしまうことが、どうしても納得できませんでした。だから会社には残らず、競技を続ける道を選びました。

まず、知り合いを通じて、実業団チームの監督の連絡先を聞き、直接自分を売り込みました。しかし、当時は実績がなく、受け入れてくれる実業団は一つもありませんでした。楽観的で考えが甘かった僕は「だったら、一人で走って実業団に入れてもらえるような結果を出そう」と決めました。

コーチングについて一度専門的な勉強をしてみたいとも考えていたので、大学院という進路を決めました。「二年間で結果が出なければきっぱり諦める」と両親を説得し、千葉の実家に帰りました。

ここまで読まれた方はお分かりの通り、僕が大学院に進んだ優先順位は、「競技を続けること」>「勉強すること」でした。もし、同じようなケースで大学院を検討される方がいれば、僕のような進路の決め方は正直おすすめしません。僕の場合、有難いことに多くの出会いに恵まれて、奇跡的に今の会社(チーム)にいられるからです。本当に感謝し尽くせません。

↓2014/4/5 Facebookの投稿

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大学院への入学

僕が大学院を決断するまでに、多く知人や先生方が力を貸して下さいました。その中でも、のちに担当教授となる田中純夫(すみお)先生には大変お世話になりました。

田中先生の専門は教育心理学です。大学時代、僕は田中先生のゼミに入っていました。当時、先生は、僕が箱根駅伝に出場したことをとても喜んでくれていました。そこで大学院に入ろうと決めた時、真っ先に田中先生の力をお借りしようと思ったわけです。

僕は先生にご連絡し、先ほど述べた経緯と競技を続けたい旨を伝えました。すると、先生は二つ返事に了承し、「私にできることなら協力しますよ」と言ってくれました。そして、すぐに願書を提出しました。先生には入学試験の一つの小論文を指導してもらい、無事、大学院に入学することが出来ました。そして、再び先生の研究室に入ることになりました。

田中先生との久々の再会

入学式当日、田中先生と久しぶりに顔を合わせる機会がやってきました。

「おー、山田久しぶりだな~」

僕は一瞬、この人誰だろう、と思いました。そして、すぐ気づきました。それは、ややふっくらとしていた姿は見る影もない、病的に痩せた田中先生でした。

僕は動揺を必死に隠し、すぐさまお礼を述べました。その後何を話したのか、正直覚えていません。たぶん今までどんな生活をしていたか、そしてこれから大学院でどのようにしたいかを話したのだと思います。

「いやー、すい臓がんになってしまってね。困ったよー。」

田中先生は大学時代と変わらず、明るく話されていました。

大学院1年目

先生の研究室で今後についてじっくり話す機会がありました。僕は先にも述べたように競技や研究について正直な気持ちを伝えました。

「競技がやりたいのなら、納得するまでやればいい。ただし1年で実業団に戻りたいのなら、修士論文はキチンと書きなさい。それと、修士論文を書くにあたり、研究分野に関連する本を最低100冊は読みなさい。論文はその倍読みなさい。」

それは、大学院2年間で最も身になったアドバイスでした。本来、大学院生は学部生の指導や先生の授業のサポートなどの雑務をこなさなければなりません。しかし、田中先生は僕に気を遣い、トレーニングを優先するように言ってくれました。僕の代わりに、他の大学院生がサポートしてくれました。先生は体調が悪いながらも学生たちには明るく振る舞っていました。

僕はトレーニングは学生とは一緒に行わず、ほとんど一人で行っていました。僕は、自分の好きなように練習を組み立て、自分の好きなようにレースに出場できることに喜びを感じました。

そしてレースが終わる度に田中先生に報告に行きました。

「一人で練習して自己ベストが出るなんて凄いじゃないか!」

と褒めて下さったのを今でも覚えています。

この年の夏、縁あってプレス工業の夏合宿に参加させて頂きました。その中で色々と感じたことがあり、もし実業団に戻れるのなら、このチームに入りたいと強く思いました。

そんな風に過ごす中で一番苦しかったのは、この先、どうなるか分からないという不安でした。当時はあまり考えないようにしていましたが、「もし実業団に戻れなかったら…」「もし貯金が底を尽きたら…」など不安に思うことは沢山ありました。

それでも、絶対に実業団に戻るんだ、もっともっと強くなるんだ、「アイツは終わった」と思っている奴らを絶対に見返すんだ、と心の中でずっと思っていました。

一人での練習が上手くいかず、不調に苦しんだ時もありました。そんな時は中学の恩師に練習をサポートして頂いたり、走りを見てもらったりもしていました。

僕はそれらの不安をかき消すように、がむしゃらに授業、練習、読書、そして修士論文を書くという忙しない日々を過ごし、大学院1年目を終えました。

大学院2年目

結局、大学院1年時の競技成績では、プレス工業への入社は認められませんでした。そして、大学院2年目になりました。僕は、田中先生に言われた通り、練習以外の時間は本と論文を読む時間にあてました。

僕の専門分野はスポーツ心理学でしたが、少し似通った分野(経営組織学、リーダーシップ学
、行動心理学、統計学など)の本や論文もがむしゃらに読みまくりました。そして、修士論文を少しずつ書き上げていきました。

2年目になると、トレーニングの方は概ね順調に行うことが出来ていました。レースで良い結果を出すために、自分で手配し、宮崎や北海道にも遠征しました。その甲斐もあって、何度か自己ベストを更新することが出来ました。

そして、それらの結果を総合的に評価して頂き、とうとう念願だったプレス工業への入社が決まりました。陸上部の部長は僕を「駅伝の戦力」として期待し、入社を認めて下さいました。

僕はすぐさま田中先生に報告しました。そして、入院中の病室に伺い、先生と力強い握手をしたことを覚えています。

「私はね、箱根駅伝も好きなんだけど、本当はニューイヤー駅伝の方が好きなんだよ。だって学生と実業団ではレベルが全然違うじゃないか。プロはやっぱり凄いよな。そうかぁ、ニューイヤーが楽しみだなぁ。」

この時、田中先生の病状は悪化し、入退院を繰り返していました。

僕はプレス工業に入社し、久しぶりにチームで練習をする喜びを噛み締めました。そして、この場所で力を付けて、ニューイヤー駅伝で快走する姿を田中先生に観てもらいたい、と心から思いました。それが先生への恩返しになるはずだ、とも思っていました。

しかし、残念ながら、それは叶いませんでした。

僕が最後にお見舞いに伺った時、田中先生はこんな事を仰っていました。

「論文は書いているか?あぁ、その先生に任せれば大丈夫だな。それより陸上の調子はどうなんだ?山田はケガが多いから気を付けなさいよ。なんだか山田と話していると頭がスッキリしてくるなぁ。」

後から聞いた話ですが、この時、先生は既に意識が朦朧とする日々が続いていたそうです。僕はそれに気付かないほど、先生はしっかりとした様子で話していました。

その1ヶ月後、先生は帰らぬ人となりました。僕は会社の研修期間でしたが、無理を言って葬儀に参列させて頂きました。当日は田中先生を慕う生徒や卒業生や先生方で人が溢れていました。

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そして、僕は先生が気にかけてくれた通りというべきか、案の定、ケガをしました。慣れない安全靴で足底を痛めてしまったのです。約1ヶ月間、全く走れないほどの重症でした。

それでも、「今回のニューイヤー駅伝にだけは絶対に出たい、いや、絶対に出なくてはならない」と心の底から思いました。

約1ヶ月間休んでしまったため、体力は相当に落ちていました。それでも、チームの練習に必死に食らいつきました。脚の痛みは完全に無くなった訳ではありませんでしたが、トレーナーに尽力して頂き、なんとかやり過ごしました。そして、あとはもう、理屈ではなく気持ちだけで走っていました。

そして、なんとか調子を上げる事が出来、チーム内で最後の一枠を勝ち取り、ニューイヤー駅伝のメンバーに選ばれました。

↓2015/12/31 Facebookの投稿

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結果は、区間15位。その時、持てる力は出し切ったと思っています。ですが、チームは目標順位に届かず、結果的に僕はチームに貢献するような走りが出来ませんでした。

レース後、僕は自分を責めました。「多くの方々に迷惑をかけてまで、自分がこのチームに入った意味とはなんだったのか」と。そして、「結局のところ、自分には何も出来なかった」という無力感や悔しさでいっぱいになり、自然と涙を流してしまいました。

それが僕が初めて走った、ニューイヤー駅伝となりました。それ以降、僕にとってのニューイヤー駅伝はより特別なものになりました。

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その後、修士論文は提出期限ギリギリに提出しました。納得出来る形になるまでは書き直したいと思っていたら、論文指導の先生とのやり取りが長引いてしまい、結局書き上げるまでに1年以上かかってしまいました。決してサボっていた訳ではないです。笑

そして、3月、晴れて大学院修士課程を修了することが出来ました。

大学院修了

↓2016/4/1 Facebookの投稿

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(ちなみに妻には入社が決まったらプロポーズしようと決めていました。笑)

思えばこの2年間、多くの方々に支えていただきました。特に、田中先生には、もう伝えられないけれど、本当に感謝し尽くせません。

当時は、必死に不安を感じないようにしていましたが、多くのプレッシャーに追い込まれていました。それでも「絶対に、もう一度、この道に戻ってくる」という根拠のない自信を持ち続けて来られたのは、周りのサポートがあったからこそだと思っています。

この時の経験が競技に役に立っているか、と言われれば、決してそんなことは無いと思います。ただ、大学院の時に学んだことが今の自分に根付いていているという感覚はあります。この知識をもっと深めながら、今後に、(時々このnoteに)生かしていきたいと思います。

そして、今は現役選手として、「プレス工業に入った意味があった」と思えるような、また、自分自身が納得出来るような結果を追い求めていきます。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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