SS小説「月から来た男」

ショートストーリー小説(2020年作)

「月から来た男」

「僕は月から来たんだ」
 9月のまだ残暑の残った気怠げな気温の中、地元のバーでよく会う男がそう言った。私はその男がそんなくだらない冗談をよく言うのを知っていた。
「またそんなバカなことを言って。つまんないよ、それ」
 私は自分が頼んだジントニックを見つめながら言った。基本的にバーに行く時はジントニックを飲むことにしている。これが1番この世で美味しいお酒だと思っている、間違いない。
「嘘だと思ってるだろ?でも実は本当のことなんだ」
 そんなわけないじゃん。私は心の中でそう思って特に返事を返さなかった。マスターは静かにグラスを拭いたり、洗い物をしたりしていて、こちらの話には入ってきそうにない。そして私たち以外の客は誰もいなかった。まったく、この男の相手はだいたい私がすることになるのだ。
「そして月の住人である僕には青い血が流れているんだ。気にならない?」
 ならない。というか、まだめげないのか、この男は。毎度毎度、飽きないものだ。私以外の人にも話しかけているところを見ることはあるが、ほとんどの場合は無視されている。もしくは最初だけ話をしているが、途中で先に相手が席を立つことが多い。なんともならない男なのだ。
「気にならないかぁ。仕方ないな。あ、そういえば話忘れていた」
 ふと言葉の感触が変わったのを聞いて、私はその男を見た。男は30代後半(だと思う)で、格好もラフなうだつのあがらない姿だった。いつもビールだけを飲んでいるので、もちろん今日もビールを片手に話していた。
「なんの話?」と私は片肘をつきながら言った。
「いや、たいした話ではないんだけど、そろそろ僕も帰ろうと思うんだ。あの空にある月にね」と男が言った。
「あー、そうなんだ。へえ、ふーん」
 私は男に向き直ってしまったことに後悔していた。この男が本気の話をすることなんてないことを知っていたのに、話をちゃんと聞かなければと思ってしまった。最悪だ。
「まあ、仕方ないんじゃない。特に寂しくはならないけどね」
 とりあえず適当に話を返して、私はジントニックを飲み干した。そろそろ帰らなければ明日の仕事に響くだろう。
「マスター、チェックで」
 私は少しほろ酔いな気分で財布から数千円出し、会計を済ました。馴染みの店なのでおおよその金額はもうわかっている。
「じゃあ、また今度ね」
 そう男に言って私は席を立ってすぐに店を出た。もう男のことは思わず、明日の仕事のことを考えながら、帰路についた。今夜は少し涼しく、半袖できてしまったことを後悔していた。
 その後、何度かそのバーに飲みに行ったが、その男に会うことは2度となかった。私は少し、ほんの少しだけ後悔した。もう少しだけ優しくしてあげたらよかったかもしれない。いや、してあげたらなんて失礼な言い方かもしれないけど。それでも、私はあの男と話すことが日常のひとつになっていたことに気付いた。
 今日も私はジントニックを飲んでいる。うだるげな気持ちと共に。


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