SS小説「文学少女と夏の空」

ショートストーリー小説(2020年作)
「文学少女と夏の空」

「ねえ、きみは小説を読んだことある?」
 凛とした声で先輩はそう話しかけてきた。
 部室の窓から夏のからっとした空を眺めていた僕は、先輩の方に視線だけを向けた。机についた片肘と、頬にあてていた手はそのままにして。
 先輩は部室の入り口のすぐそばにパイプ椅子を広げて、そこに座って本を読んでいた。いや、まだ読んでいる。目線はこちらには向けず、ただ声だけをかけたようだ。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と書かれた背表紙が見えるが、僕にはどんな本なのか、それが小説なのかもよくわからなかった。
「えー、まあ、はい…すみません、あんまり読んだことないです」と先輩に向き直った僕は言った。
 正直、小説や本自体を読んだことなんて、ほとんどなかった。なぜ文芸部に入ることになってしまったのか、自分でもよくわからない。確か運動部に入るのはめんどくさくて、文化部の中でも1番楽そうな部活を探していた。その時たまたま目についたのがこの部活だったのだ。
 勧誘期間に色々な部活のブースがあったが、周りが新入生たちに喧しく勧誘を行っている中、背中の中頃まである黒い髪を後ろで一括りにした先輩が、1人でぽつんとパイプ椅子に座り、ただひたすら本を読んでいる様子を見て、ここなら楽そうだ、大丈夫だろう、とふと思ったのだった。別の思惑がなかったかと聞かれると、反応に困るところなのだけれど。
 部員もほとんどが幽霊部員で、唯一ひとつ上の先輩だけが毎日、部室に顔を出していた。顧問の先生すら滅多に顔を出さない(僕はまだここで1度も見かけたことがない)。
「ふーん、そうなんだ」と先輩は言った。
「小説を読もうとしたことはあるんですよ?でも2,3ページで、もういいやと思ってしまって」
 その言葉を言ってしまった後、これはもしかしてまずいのではないか。怒られるんじゃあ…そう一瞬、僕は思ったが、本を閉じて膝の上に置いた先輩が続けて話しかけてきた。
「それじゃあ、人と会話するのは好き?」
「…そうですね、友達と話すのは嫌いじゃないっすけど」
 クラス内の友達とはよく休み時間にバカな話をしていた。そんなに多いグループではないけど、仲はそれなりによい方だと思っている。
「実は小説はね、それと一緒なのよ?」と先輩が言った。
 僕にはその言葉がよく理解できなかった。
「どういうことです?」
「つまり、小説は過去の偉人たちとの会話、対話になるということ。別に過去の人たちだけじゃないけどね」
 少し笑いながら先輩は話を続けた。
「だから小説、だけに限った話じゃないんだけど、作品に触れるとき、私たち読者は作者との対話を無意識にしろ、意識的にしろ、行っている、っていうこと。わかるかな?」
 なんとなく先輩が言いたいことはわかる気がしたので、悩みながら僕は頷いた。
「そして、実はこの対話はね、作者との対話だけじゃないの。自分自身との対話も行っているの。私はこういうところで感動するんだとか、こういうところで怒りを覚えるんだ、とかね。何が嫌いで何が好きか、心の調整をするの。自分が想像している何倍も、実際の自分の心とは距離が離れているからね。その距離感を合わせるというか、距離を測る物差しを合わせるようにしているの。ごめんね、私もまだちゃんと理解できてはいないから、あやふやな言い方になっちゃうんだけど」
 先輩は申し訳なさそうな顔で僕にそう言った。
「だからもしきみが小説を読んだとき、数ページだけしか読めないなら、それはきみにあった人や物語ではなかっただけで、それに対して自分が損なわれているように思う必要は全くないの。きっといつかわくわく、ドキドキするような、そんな小説や人に巡り合えるよ」
 その言葉を聞いて僕はふと先輩に聞いてみたくなった。
「先輩はご自分で物語を書かないんですか?」と僕が言った。
「私?基本的には読む専門なんだけど、部活上、簡単な文章なら書いたことがあるかな。…でも実はね、今短編小説を書いている途中でね?学校を卒業する頃にはどこかの賞に送ろうかと計画中なの」
 先輩は楽しそうに笑いながら言った。その姿を見て僕は素直に好意を持った。
「あの、もしよければなんですけど、先輩がその短編小説を作ったら、僕に読ませてもらってもいいですか?先輩の本なら、読めそうな気がするんです」
 先輩は一瞬、きょとんとした顔をした。そして次にケタケタとお腹を押さえて笑い出した。目には涙さえ浮かべるほどに。本当に楽しそうに笑っていた。そんな先輩の姿を僕は初めて見た。そうしてしばらく笑った後、少しだけ息を整えて言った。
「ありがとう。わかったわ、もし小説ができたら、きみに1番初めに見せてあげるね。まだ始まってない物語のきみがファン第1号だね」
 窓の外を見上げると空には飛行機雲がかかっていた。それは空の彼方まで永遠に繋がっているようにさえ思えた。その行方を僕はまだ知らない。



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