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「これは私だけなのか?」病

公立高校で14年間勤務し、アメリカで1年勤務し、今は🇺🇸大学院で日本の教育について学んでいてもなお、

私が経験したあのこと、私が感じたあの気持ち、

あれは私だけなのか!?と思うことがあって、一瞬その感覚に苛まれることがあります。

これだけnoteにも色々と書いて整理しているのにも関わらず、

例えば

  • 「学校で空気を読んでいると思っているのは私だけなのか?」

  • 「教師をして辛かったのは私だけなのか?」

  • 「私だけが価値観が変わっていたからか?」

    といった思考です。

自分が経験してきたことに価値があり、そこに意味を見出すことが躊躇される瞬間ってなんなのでしょうか。(単なる呟きですが)なんか、ここにもヒントがありそうな気がします。
例えば大声で不満を言わない集団としての美徳、とか不平や変化への意志を共有しづらい特徴とか?個の感覚を共有しづらい環境があるように感じています。

余談ですが、大学院で学んだ研究手法の一つにautoethnography(オートエスノグラフィー)と言って自分の物語を研究対象にするものがあります。よくあるのはマイノリティの人々のライフヒストリーや社会に届きづらかった声をエビデンスとして広く理解してもらおうという動きですが、面白いなと思っています。

日本で個の声を拾っていったとしたら、教師の声をもっと拾い集めていけば何か変わるのでしょうか。


Teachers of Japanではティーチャーアイデンティティ (教師観)の発見を通じて日本の先生方がもっと自分らしく教育活動に専念し本来は多様である「教師」の姿を日本国内外へ発進しています。日本の先生の声をもっと世界へ!サポートいただけたら嬉しいです。