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【え12】おうちが焼けた日

冷え込みが厳しい夜。
強い北風が部屋の窓を揺らす。
消防車のサイレンが、かすかに街の遠くから聴こえてくる。
その全てが、私にはトラウマになっている。それが他人事だとしても。

私の住む街では、15年に一度の程度で「大火」に見舞われる。
記憶の中での最初に起きた大火は、中学2年の頃だった。
深夜になろうとした時。古くから残る市場街での事だった。
市場街の入口を支える柱が火の勢いに耐えきれず、その前を走る道路に崩れ落ちていく姿は、30年経った今でも覚えている。
炎は小さな市場街の全てを焼き尽くした。黒く焦げた残骸だけが虚しく残った。
今、その場には市営の高層住宅が建てられている。何事もなかったかのように。

それから15年程の時が経過した夜。
この日の夜は寒かった。
そして、この日は風も強かった。
突如として多くの消防車のサイレンが街中に響いた。消防本部からも大きなサイレンが鳴っていた。相当な規模の火災だ。尋常ではない。
家を飛び出して東側を見ると、赤く鈍った光と黒煙が見えた。
場所は住宅密集地。強い風に乗って火の勢いは増していったと聞く。ひとたまりもない。火の粉は近くを走る鉄道の高架線を超え、一棟の家をも巻き込んだ。
幸いな事に近くには背が高く幅の広いマンションが建っており、それが防火壁の役割を果たして、大火の規模が拡がる事はなかった。
しかし、強い風に煽られた炎は住宅が建ち並ぶ番地の一区画を焼け野原にした。

そんな大火騒動が収まりつつあった頃。
明日の仕事の準備を終えて眠りに入っていた私を、隣の部屋で寝ていた弟が揺り起こした。そして、弟は冷静に揺り起こした理由を伝えた。

「裏のアパートが火事だ」

当時は自衛官だった弟は冷静だった。何故か私も冷静だった。
母は向かいに住む友人に、半ば発狂に近い声で火事の一報を伝えている。
私は濃い橙色に光っていた窓を開けた。アパートは既に我々の手ではどうしようもない状況と化していた。紅蓮の炎に包まれ、我が家を飲み込もうとしている。
私は小学校の避難訓練で習った通り、窓を閉めた。火災だからだ。
そしてダウンジャケットを羽織り、何も持ち出すことなく至って冷静に階段を降り、明かりが点いている居間を通り過ぎ、サンダルに履き替え、外へと「避難」した。居間には母が白い毛糸で編んでいた何かがあったのは記憶している。
家の外に出ると、通りを縦にズラリと並んだ消防車と消火活動に急ぐ消防士、そして多くの野次馬達がいた。母や弟の姿は見当たらない。ただ、隣に住む老婦人はベランダで右往左往していた。

私は女性消防官に呼び止められ、消防指令車なるワンボックスカーに乗せられた。どうやら「第一発見者」という扱いらしい。確認時刻、確認した際の状況。事の知る限りを彼女に伝えた。外に置かれたホワイトボードには
「覚知時刻:午前4時27分。場所:◯◯町◯◯番◯◯号付近」
と書かれていた。
それ以降の記憶は、正直なところ殆ど残っていない。車から出て家の方向に目線を移すと、真っ直ぐに炎が立ち上がっていたのは覚えている。その日は幸いにも無風であり、新築したばかりの両隣の家には被害が及ばなかった。ベランダで右往左往していた老婦人も、消防隊の手で助けられた。後に知人から話を聞くと、まるで「どんど焼き」のようだったらしい。
ダウンを着ていたとはいえ外は寒い。燃え盛る炎に何することも出来ないのは承知している。出来ないことは出来る者に任せる。私は外にいた女性消防官の許可を得て、車の中で鎮火を待っていた。
その間、弟は野次馬の中にいたそうだ。報道関係者からマイクを向けられた際「あの家、俺んちですよ」と言ったそうだ。報道は気まずい顔をして去って行ったらしい。母の行動は聞いていない。少し離れた場所に住む別の友人宅へ身を寄せていたのだろう。

やがて朝が来た。紅蓮の炎も消えていた。
私は弟が持ち出したであろう衣装ケースを抱えて、避難所となった公民館へと歩いていた。途中で新聞記者が二人、火元であるアパートの駐車場の前にいた。一人が大きくあくびをした。私はそれを見て「いい気なもんだな。俺の家は焼けたというのに」と嫌味を言うと、彼らもまた気まずい顔をしていた。今思えば、ぶん殴っておけばよかった。
嫌味を垂れた後、彼らの後ろを見ると、アパートはすっかり炭となっていた。自宅は姿形が残っていた。ある程度は焼けていたが。

衣装ケースを公民館に置いて自宅へ向かうと、引き戸式の玄関も隣の窓も見事に破壊されていた。消防官の許可を得て、ヘルメットを被り土足のまま自宅へ入る。泥と水にまみれてはいるものの、正面側は焦げてもいない。その奥は散々な光景だった。家を離れる前は生活の匂いがあったが、今は影も形もない。火元の近くにあった物は見事に焼けただれていた。居間は畳敷きの和室。畳は水を吸い、その上に敷かれていたカーペットも同様だった。テーブルは斜めに動かされ、母の白い編み物も再び編むことは無理な状態だった。

「気を付けて昇ってくださいね」
消防官に声をかけられながら、私は二階へと歩を進めた。
私は部屋こそ焼け残ってはいたものの、再び住もうとは思えなかった。ガラスは全て割られ、部屋の中に朝の光がダイレクトに入り込んでいる。不織布が被せられていたワードロープハンガーは消火の邪魔になったのだろう。お構いなしに踏み倒されていた。テーブルも同じく。その上に置かれていたノートパソコンには見事に足跡が付いていた。これだけでも持ち出せばよかった。

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火元に近い弟の部屋は、もっと凄惨だった。見上げると青い空が見えた。ベッドの下にあった衣装ケースが一つない。私が避難所に持って行ったのはそれだったと思う。余程高価な服が入っていたのだろう。私が閉めた窓も当然割られていた。その隣にはちょっとした倉庫があり、アルバム等が置いてあったが、そこへ向かう術が無かった。偶然にも、アルバムは父方の祖父母に「暇つぶしにでも見ればいい」と渡していたので残っている。岸辺のアルバムよろしく、燃え盛る炎の中で格好良く持ち出す事は考えにも浮かばなかったので、奇跡だった。

階段を挟んだ隣は、父と母の部屋だ。ここもまた酷い有様だった。照明の傘は溶けている。室内は相当な温度だったのだろう。火元の近くには母の服が入った洋服ダンスがあったが、これもまた存在は消火の邪魔でしかなく、見事に引き倒されていた。2,3着は取り出し、伯母がクリーニングに出してくれたが、残りは取り出せなかった。命懸けの作業だったからだ。
母の大切な物は、全て火元側に収まっていた。2階には洋服が。居間の片隅にあった収納スペースにはカバン類が入っていた。居間の火元側が最も焼けており、母は全てのカバンを失った。収納スペースの隣には飼っていたインコのケージがあったはず。それに気付き慌てて探そうとしたら、後ろにいた消防官が「弟さんが持って避難されていましたよ」と笑顔で答えてくれた。仏壇には位牌がなく、上にある筈の遺影も無かった。母と弟は、最低限の物を持ち出していたのだ。何も持ち出していない私は、心のなかで少し恥じた。

祖父の生前中にリフォームしたトイレも。
雑然としていたものの、それなりに機能を果たしていたキッチンも。
大きな洗面台とその横にあった洗濯機。そしてバスルーム。
我が家の全てが再起不能と言わざるを得なかった。
後に消防署から渡された「り災証明書」では半焼扱いとなっていたが、限りなく全焼に近い半焼だ。火災現場を見慣れている消防からすれば我が家はミディアムレア扱いなのだろうが、初めて火事の被害を受けた者からすれば限りなくウェルダンに近かった。
残念な話は続く。当時の我が家は借家だったこともあり、火災保険に加入していなかった。り災証明書も、各種料金の免除や延長の申請にしかならなかった。現在はその教訓を活かし、それなりの火災保険に加入している。

ひとしきり自宅の様子を見て公民館へ戻ると、母と弟。そして向かいに住む住人が既に一休みしていた。
公民館の2階にある畳敷きの大部屋が避難場所であり、僅かな期間の仮住まいとなる。
多くの方々が訪れた。母の知人は、向かいに住む母の知人のそれでもある。誰もが山のような茶菓子の差し入れと共に、それぞれに茶封筒を置いていった。公民館の向かいに住む私の親友も訪れた。今にも泣き出さん顔で「何かあったら言って。遠慮せずに言って」と言ってくれた。「死んだ訳でも足が取れちゃった訳でもないから」と言って見送ったと思う。この時も泣く事はなかった。
弟はケータイで、上官らしき人とコンタクトを取っていた。そうだ、私もケータイが…と思い、着ていたジャケットの右のポケットに手を突っ込むと、それがあった。今も昔も一番大切な物はこれだ。
私も勤務先への電話連絡と、近しい2名の友人にメールを送った。
そしてお茶を飲んだ後、座布団を枕にして羽織っていたジャケットを布団代わりに少しだけ横になった。目の前には陽の光を浴びているインコが、ケージの中で周囲を物珍しそうに見ていた。

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その日の夜、父が赴任先から車で帰って来た。
自宅の様子は外から見てきたらしい。持ち出す必要のある物は無いようだ。父の洋服はほぼ焼け残ってはいたが、持ち出す程ではないらしい。物に執着のない父らしい答えだ。
そうこうしていると、市の防災課から避難者用の布団とブランケット、そして防災グッズの入ったバッグが届けられた。
ブランケットは真空パックになっており、パックには「日本赤十字社」と印刷されていた。引っ張り出したブランケットの角には競輪のマークが描かれたステッカーが縫い込まれていた。父は大の競輪好きであり「俺の『貯金』が活かされたな」と冗談を言っていた。

父は明日も仕事があるそうだ。避難しているご近所さんに挨拶を済ませて赴任先へ戻ろうとした時、隣町から見舞いに来た弟(叔父)と鉢合わせした。「兄ちゃん、もう戻るの?後始末の手伝いは?」
「いや、戻らないと仕事が回らないんだ」
父は足早に赴任先へと戻っていった。叔父は「兄貴は昔からああいう感じだから」と言っていたが、それが後に大きな出来事を生む。それは後日。

突如として起こった事態を嘆いている暇などなかった。
焼け出された男連中には、翌日から始まる「後片付け」の方がしんどかった。
「火災ゴミ」と呼ばれる物は、以前だったら家ごと全てショベルカーで処分してくれたらしいが、ゴミの分別制度が始まって以降、焼けていない物は可能な限り分別が必要だった(現在は多少緩くなったらしい)。

ひとまず2階の物を降ろそうという事になり、私は自室の整理を始めた。
散らかってはいるものの衣類は残っている。ただ、それらを詰め込んでいた3段ケースはどれも消火した際の水で満杯だった。
私がその水を吐かせながら「参ったな…」と口にした時、すぐさま弟が

「それは絶対に母ちゃんに言うな。母ちゃんのは全部燃えたんだから」

私より弟のほうが遥かに大人だ。確かに母は僅かな洋服を除き、大切な物の大半を焼失した。それに比べれば、たっぷりと水を含んだだけの私の服など着れるだけでも充分にありがたい話だ。
私は自戒しながら濡れた服を絞り上げ、1階の「持ち出し」と書かれた場所へ運んだ。

季節は1月半ばだというのに、額からはどっと汗が出る。
買ったばかりの冷蔵庫と、現役バリバリの洗濯機は使えそうだ。
救える物を持ち出すのも一苦労なら、自宅がミディアムレアになる前から既にゴミのようだった異常な数の食器や調理器具の運び出しも一苦労だ。近所の人や近くに住む親族の力を借りながら作業が続く。

その中でも、当時は存命だった母方の伯父は手伝いに来たのか邪魔をしに来たのか分からなかった。いつか多くの客人が訪れるかもしれないが為に置いてあったっきりの食器を、この際だから捨ててしまおうとした時にストップがかかる。
「お前、何でも捨てるもんじゃない。いざとなって買う時は大変なんだから」
そう言って、生き残った食器を「持ち出し」と書かれた壁に運んでいった。
この頃は既に「100円ショップ」は存在しており、食器類なんぞは一通り揃えることが可能だった。母方の祖父が亡くなったばかりなので、家族は単身赴任中の父を含めて4人。ちなみに、祖父が亡くなった際も自宅ではなく葬儀社で法事を行ったので、殆どの食器は無用の長物だったのだが。
伯父は必要だと感じた食器類と、焼け残った録画済みのVHSテープを車に積み、持ち帰った。伯母もさぞかし迷惑だったろう。昔を生きた人間は「モノ」に対し想像以上の執着がある。伯父の家はそうではなかったが、ワイドショーやニュースで時折伝えられる住宅は、家主がそうなのだろう。

有料のゴミ袋は市から無料で届いた物だと思う。可燃ごみ・不燃ごみ・リサイクルゴミを合わせると、火災ゴミの入った袋は有に20を越えていた。
「全部燃えてしまえばよかった」疲れた弟は子供に戻っていた。

疲れてはいたが、毎日食うのには困らなかった。
ご近所さんは食べきれない程のおにぎりを持って来てくれた。
火元のアパートを管理していたのは社会福祉施設だったので、そこで働く方々が交代で味噌汁なりカレーなりを作りに来てくれた。
近所付き合いが希薄になっている今となっては、本当に有り難い限りだ。
母が自治会の仕事をしていたおかげでもある。引っ越してきたばかりの家族だったら、後片付けの次は食事の準備だ。きっと毎日カップラーメンとコンビニ弁当の繰り返しだっただろう。

後片付けが始まって2日ぐらい経った頃だと思う。
自宅…いや、少し前まで自宅だった場所に一人の女性が来た。
火元のアパートの住人の親族らしい。その顔は明らかに憔悴しきっていた。
8部屋ほどあった火元のアパートには、住人が一人しかいなかった。
足の不自由な男性だったと思う。面識は皆無だった。
消防と警察の双方で行われた現場検証の後に、出火原因は「ファンヒーターの転倒による失火」とされていたが、どうやらそうではないらしい。
理由を知る者は、紅蓮の炎に包まれたアパートと共に消えてしまった。
女性は母と少しだけ言葉を交わし、アパートの管理人に肩を抱かれながら去っていった。
母は「仕方ないよ。文句は言えない」とだけ言い、後片付けに戻った。
私の友人の中には「焼かれ損も甚だしい。いい弁護士を紹介する」と言う者もいたが、その時は私も母の言葉を使わせてもらった。

いつまでも公民館に身を寄せる訳にはいかない。
私達は、母の友人が大家を務めるアパートを新たな仮住まいとした。
家賃は無料だったが、4階建てのアパートにはエレベーターが無かった。
ひとくちコンロに2ドアの冷蔵庫。風呂なしの和式トイレ。
窓辺に母の友人から頂いたポータブルテレビを置いて、それを観ながら飯を食う。
南向きの2Kの部屋に、家族3人が川の字で眠る日を送った。
それはそれで良い経験だったと思う。悪くはなかった。
毎日レジ袋を抱えてアパートの階段を昇る母を除けば。

新しい家は、半月も経たない間に決まった。
決して新しいとは言えない、2階建ての借家。
家の前にある7台分の駐車場の管理も任される。
しかし、生まれ育ってきた町から離れたくないという母の思いは強かった。
不動産屋からは2人の連帯保証人を立てろと言われた。一人は母方の叔父。もう一人は自治会長。借主は名刺にこそ取締役と刷られている「戸締役」。
契約書類に名を連ねるメンバーの中で一番ショボいのが貸主では、さすがに何も言えない。それどころか、引っ越した時には表替えされた畳が敷かれ、内覧の時には木枠だった窓も全てサッシに変わっていた。
借家の持ち主が叔父の同級生だったのも理由なのだろう。破格の待遇だった。

あれから10年ほど経つ。
風が吹き荒ぶ冷たい夜に響く消防車のサイレンは、今でもトラウマだ。
自宅だった場所が月極駐車場となった今でも、毎週決まった日に防火パトロールが行われている。火の用心という言葉の後に拍子木の鳴る音が聞こえるなんて、時代劇か我が町ぐらいだろう。

火元となったアパートの跡には、中層階のマンションが建った。
今度は私達が、その裏手に暮らしている。