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表現の不自由展・その後・その後

現代アート鑑賞が好き。遊園地と同じくらい、むしろそれ以上に。新しいおもちゃを差し出されたこどものようにわくわくする。作品、芸術家とのショッキングな出会いと、それを通して得る社会への新たな視点。目の前に差し出された作品、現代社会に関する答えの出ない問について、思っても見なかった反応を示す自分や、自分の中にある新しい価値観を発見する。自分の側面への新たな気づき。これってこういうことだよね、だけどそういうみかたもできる、そういうことをぐるぐると考えながら壁から壁へ、床から天井へと視線を巡らせ、歩き、首をひねって全身でアートを浴びる感覚。芸術家の表現を通して、私達が普段なんとなくやり過ごしているか、見ようともしていないものを目の前に突き出された感覚。目と脳みそと知識と倫理観がビシビシとインスパイアされるのを感じることができる。だからわたしにとって現代アート鑑賞は大学の講義のようでありながら、遊園地のアトラクションでもある。



今回のあいちトリエンナーレは、作品を目にする前から深く考え、調べ、心を動かされなければならなかった。残念なことに。「表現の不自由展・その後」をめぐる顛末については、目にした人も多いんじゃないか。



不自由展への反応を受けて、本来無造作に置かれていた会場内の作品に新たな物語が追加されてしまった。それはアーティストが作品を作った時点においては全く想定していなかった、きわめて不本意な結末なんだろう。会場にははっきりと二種類の作品があった。つまり、一方では、展示が中止になった不自由展の作品たちとアーティスト自身の判断によって展示が取り下げられた作品、もう一方はそのまま展示が続けられている作品。そして順路に沿って交互にそれらを眺めているうちに、奇妙な感情が私に芽生え始めていた。いまトリエンナーレを楽しめているのは間違いなくここに残っている作品と、それを取り下げないでくれたアーティストたちのおかげだ。それもそう、取り下げられた作品があった場所には白い紙切れが貼ってあるだけだもの。しかし、今回の展覧会で何よりも心に残ったのはその紙切れ群、出展を取り下げたアーティストたちの声明文だった。「不在」の存在感は大きかった。



中でも私の心を動かしたのは、モニカ・メイヤーによる〈The Clothesline〉。トリエンナーレに先立ち名古屋市内で行われたワークショップにおいて、参加者の女性たちは自身が受けた様々な性被害の体験を淡い色の上に書いた。そのピンク色と薄紫色の紙が、本来であればピンチで挟まれ、写真のように整然と展示されているはずだった。


被害を可視化する作品であり、そこは苦しみが共有される場になるはずだった。しかし、私が目にしたのは、心もとない無数のクリップと囲い、床に破り捨てられた無数の紙だった。




全く白紙のアンケート用紙。それに一つ一つ記憶を確かめるようにして思いを綴った女性がいたはずなのに、その体験は誰の目にも触れることがなくなってしまった。その台風の後の丸裸になった樹木のような光景と、クシャクシャになって散乱した紙から、メイヤー氏の憤りと失望が見えるようだった。強烈な体験だった。



そしてその体験は、今目の前にある、いつもだったら私の心を踊らせてやまない残された作品をも、どこかちゃちく思わせてしまうものだった。展覧会をずっと楽しみにしていたはずなのに不思議なもので、いっそこの会場全部がペラペラの紙切れで覆われた空虚なものになってしまえばいいとさえ思えた。「表現の自由とは何か」を考える趣旨の企画展において、表現の自由が守られず、検閲行為によって中止に追い込まれてしまった。抗議文に込められたアーティストたちの憤りに満ちた声明文には、テロ行為を予告した不届きな犯罪者たちへの怒り、そして立場を利用して介入を行った河村名古屋市長と菅官房長官への怒りは大前提としてもちろん記載されていたが、企画展を守り切ることができなかった実行委員会、そして津田大介芸術監督への失望も記されていた。


絶対に脅しと検閲に屈服してはいけなかったのだ。いくらそれが来場者の安全を守るためといわれても、結果としてあいちトリエンナーレ2019は、「問題」である作品だけを取り除き、無傷ですよ、とそしらぬ顔をして続行されようとした。表現の自由は守られるどころか生贄にされたようなものじゃん。

そしていま私が歩いているのは、権力から「これなら展示してよい」というお許しをもらった作品の前なのだ。そのことに気がつくと、なんとも不快だった。

私は、アートとは額縁の中の表現だけを分析するようなものでも、彫刻の形だけを議論するようなものではないと思う。「これだけが絶対の価値観である」というような評価基準があるようなものでもないと思う。というか、金持ちたちに独占された金と権力と教養のにおいがぷんぷんするような美しいアートに対抗して生まれたのが現代アートではなかったか。

政治とアートを切り離して額縁の中でだけ楽しんで満足したくはない。美しい装飾を写真に収めてインスタに投稿して終わりにしたくはない。アーティストのバックグラウンドや作品にこめた意思、社会、政治、環境、そのアートから何がどう広がっていくのが考えるのが現代アートだと思っているし、そうして鑑賞を楽しんでいるから。アートとは多分に政治的なものであるし、ときに性的で下品で痛々しくて恐ろしくて物議を醸すものでもあるとおもう。その上で表現の自由は守られなければならない。もしも世の中に美しいアートしか存在を許されなくなってしまったら、行き着く先は感性が一つの価値観によって統率されてしまった世界なんだろう。ナチスドイツは芸術作品の検閲を通して「ドイツ国民的ではない」と判断した作品に「退廃芸術」とレッテルを貼り、無残にも廃棄した。そしていま大日本帝国の亡霊的な何かが、会場にひっそりと佇んでいた少女像にグロテスクな敵意を向け、トリエンナーレはそれに屈してしまった。

許されなかった作品と見逃された作品。
中止に追い込まれた、展示を辞退した作品と、そこに残っている作品。
表現の不自由展・その後のその後には、不可抗力とはいえ、トリエンナーレの展示作品すべてが新たな解釈のもとに置かれることになった。トリエンナーレの意義すらもガラリと変わってしまったのだろう。それが参加アーティスト全員への、そしてアーティストらの作品一つ一つへの、そしてアート全体への侮辱じゃなくて何なのだろう。

残念なことに、数ヶ月前から開場を楽しみにしていた私がようやくたどり着いたのは、変わってしまったあとだった。

願わくば、不自由展が再開され、芸術に対する検閲行為、卑劣なテロ行為に対する断固たる姿勢が示され、他のアーティストも展示を再開してくれたのなら。いち現代アートファンとして、しっぽをふって名古屋までとんでこようと思う。

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