プロットってみんなどうしてる?

ずっと前、まだ新人だった頃に読んだ小説指南本にこんなことが書いてあった。

「小説を書き終わるたびに、書き方がわからなくなる」
名言だと思う。

私はデビューして今年で十二年目になる。これだけのキャリアがあれば鼻歌を歌いながらでも書けそうな気がするのだが、そうならない。作品を書き終えた時は充実感に満ちている。何かを会得したような気分になる。その作品がそこそこ売れれば自信も生まれる。
だが、新作に取り掛かろうとパソコンを開いた瞬間、真っ白な原稿を見つめて、「あれ、どうやるんだっけ?」と呆然とする。試しに一行書いてみて、凡庸さに呆然とする。

そういう時にやることは決まっている。最近読んで面白いと思った小説を開き、書き出しを調べる。何行目から主人公が出てくるか数える。セリフってどう書くんだっけ。描写ってどうするれば? まったくの白紙に戻ってしまっている自分に愕然とする。
自分の過去作も見る。だが参考にはならない。過去作にやったことはもうできない。成功体験に囚われたら終わりだ。すぐ本棚に戻す。

そして、いよいよ行き詰ったら、新人向けの小説指南本を読む。そこには偉大な先輩作家たちの知恵が結集しており、新人ではない私にも新たな発見がある。たまに作家仲間で集まると「誰々の何々を参考にした」という話が飛び交う。小説指南本を買い支えているのは、実は中堅小説家なのではないか。

そんな折、吉川トリコさんがTwitterアカウントでマシュマロを始めた。

吉川トリコさんは2004年に新潮社「女による女のためのR-18文学賞」からデビューされた先輩小説家。
私が文芸誌「yomyom」で「わたし、定時で帰ります。」を連載していた頃、吉川さんは「マリー・アントワネットの日記」を連載されていた。「yomyom」の見本誌をもらったとき、「マリー」のページがパッと目に入ってきて、なんじゃこりゃ、と思ったのを覚えている。
マリー・アントワネットが実は日記を書いていたという設定。彼女にギャル語を話させるという発想。私にはまったくない自由さに、ショックを受け、「読んだら自分の連載ができなくなる」とページを閉じた。
後に文庫で刊行されたその「マリー」はやはりめちゃくちゃ面白かった。

Twitterで感想を叫んだところ、帯コメントに採用してもらい、対談もやらせていただいた。

『マリー・アントワネットの日記』『ベルサイユのゆり』の著者・吉川トリコさんと対談しました

さて、吉川さんのマシュマロには、開始早々たくさんの質問が寄せられ、現在も回答が続けられている。「わかるわかる」とか「えっ、そうなの?」とか思いつつ、私もすべて読んでいる。(上に貼ったツイートへ行き、吉川さんのマシュマロのリンクを踏むとすべての質問と回答が読める)

さて、この吉川さんのマシュマロをきっかけにTwitter上で盛り上がったのが「みんなプロットをどうしてる」問題だ。

吉川さんはこの回答の後に、新刊「余命一年、男をかう」のプロットを写真で公開した。そして、それに続くように、他の小説家も次々にプロットの写真を載せ始めた。私もこれに便乗してしまいました。

まとめてくれてた人もいました。

私のプロットがサムネイルに使われていてめちゃくちゃ恥ずかしいのだが、おそらくプロットをガチガチに作りこんでいく派だからでしょう。
ですが、まとめを見てみると、ガチガチ派はわりと少ない。プロットはできるだけ簡単にしておいて、執筆中のヴァイブスを大事にして書いていく、ゆるふわ派が多勢だ。

プロットだけみると、ガチガチ派がすごく感じられるかもしれないが、アウトプットするかしないかの違いだけで、おそらくゆるふわ派の頭の中にも同じくらいの情報量があるのだと思う。「楽譜はもうできている、私の頭の中に!」とスラスラ書いていたというモーツァルトが思い浮かぶ。
プロットというのは、書いているとどんどん変わっていくものであるのだが、私はそれをいちいち紙にアウトプットして、前後との整合性などを確認しないとダメなタイプ。ゆるふわ派はそれを脳内でやってしまうようだ。
ちなみに「ガチガチ派」と「ゆるふわ派」と私は書いたが、「プロッター」「パンツァー」というちゃんとした呼び方があるみたい。

驚いたのは、絵プロット派の存在だ。上橋菜穂子先生が登場人物を絵に描いているというのは知っていたのだが、けっこう多くの小説家が物語を絵に描いて考えている! 小説を書くのが上手いだけじゃなくて絵も巧いとは、どういうことなんだという気持ちでいっぱいだ。

いろんな人のプロットを見て思ったことは、ほんとに人それぞれだということ。あと、自分が編集者だったらゆるふわ派(パンツァー)のプロットの方が嬉しいかな。私のようにプロットを21枚も書いてくるやつのを読むのは嫌だろうなと思う(おい!)。「このふわっとしたプロットから何ができてくるのかな?」って待ちたい。ただ、プロットを作りこむことで改稿の回数は少なくなるため、改稿を読む手間は減るかもしれない。

また最近では「プロットを出さなければ編集会議を通せない」と言われることもあるという。広告小説ではたぶんマスト。そのくらいの長さだったら苦労はないが、会議を通すためだけにゆるふわ派(パンツァー)の人たちが長編規模のプロットを作るのはブルシット・ジョブだし、新人ならともかく、キャリアがある方なんかはお金をとってもいいのではないかと思う。(企業ならプランだけでお金取りますね)私は作りたくて作っているのでいいのだが。

さて、Twitterで公開した私のプロット。実はあれはごく一部で、その他にも取材レポートがあり、時系列のエクセルシートがあり、社史などの設定集があり、書き出す前に各話の要素を書き出すメモ帳がある……のだが、プロットだけでドン引きに近い反応があったため、黙っていた。
「わたし、定時で帰ります。」は特に膨大なので、いつか資料を集めてZINEなどにしたいと思っている。

ちなみに私はどんなに詳細なプロットを書いても、本編を書くときにモチベーションが落ちたりしない。むしろどんどん楽しくなっていく。長年クラシック音楽をやっていたせいかもしれない。同じ譜面を弾いても同じ演奏にならないのと同じで、同じ物語を何度書いてもいつも新鮮なのだ。

そこまでやっておいて、新作では白紙に戻ってしまうというのは本当に不思議である。