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「みんなアウトプットの方法を知らない」 −−坂口恭平の『自分の薬をつくる』を読んでわかったこと

お盆休みですね。
夫婦ともども東京出身で、親世代も東京出身なので、帰省もUターンラッシュもなく、全員東京にいる親戚が集まることもなく、かといってハイシーズンの旅行は高いので、暑いだけの東京で無為に過ごしてます。それが東京庶民のお盆休み。

さて、7月に入ってすぐ看護業務が三つ同時に発生した。テレビドラマとか小説で家族が描かれるとき、病気や怪我になるのは誰か一人だ。しかし現実では同時多発することが多い。そして彼らをケアするのは私一人、ということも「あるある」だ。しんどいのは体の疲労より、心のしんどさを殺さなければならないことだ。そういう日々を久々に送った。

鬱病が発生するのは戦争が終わった後だとよく言われるが、「もう大丈夫」と思えるところにくると心はしんどさを吐き出す。積読にしてあった『自分の薬をつくる』を手に取ったのは、そういう段階に来ていたからだろう。

著者は、希死念慮に苦しむ人との対話「いのっちの電話」を自らの携帯電話で続けている坂口恭平さん。彼によると、「死にたい」と電話をかけてくる人たちが、ほとんどの人たちが、

「好奇心がなくなった」
「関心がなくなった」
「興味がなくなった」

と、口にするらしい。

つまり、昔、私はいろんなことに好奇心を持っていた、関心のあることがあり、なんにも興味を持って取り組んでいた、ってことなんですね。ところが今では何も考えることができなくなった、なんにもしたくなくなったと言うのです。
 そして、それがきっかけとなって「死にたい」と感じてしまうようです。

『自分の薬をつくる』坂口恭平

 わかるなーと思っていたら、「好奇心がなくなったという状態は一体どんな状態なのか」と話は続いた。その答えが面白かった。

 好奇心がないのは、外の情報をインプットしたくないからなんです。

…なるほど。ここで言う「外の情報」とは「現実」だという。自身も躁鬱病を患っている坂口さんは「外の情報」がいっぱいになってしまった人の状態をこう説明する。

 体はもうお腹いっぱいで食べなくてもいいと言っているのに、意識は満腹感みたいなものが壊れてしまっていて、胃が膨らんでいることに気づかず、どんどん口にしようとするわけです。そりゃ、入っていくはずがありません。
(中略)
 必要なのは死ぬことではなく、休んで、消化して、ウンチをすることのはずです。

『自分の薬をつくる』坂口恭平

 ウンチをする。つまり「アウトプット」だ。ここでいうアウトプットとは何かをつくりだすこと。創作したり企画したり喋ったりすることだ。

 なんかすごくわかる。数年前、私も希死念慮に苦しんだ。本当に苦しい数年間だったが、小説執筆だけは続けていた。半日は横になっているような酷い状態だったが、作家人生で最大量の文字を書いていた。アウトプットしまくっていたのである。
 小説だけでなく、クローズドなSNSで日記を書いて高校の友人たちに読んでもらっていた。どんだけアウトプットするんだという感じだが、今思えばそもそも希死念慮自体がアウトプットを封じられたことから起こっていたのかもしれない。
 二人目を出産したばかりで、仕事の時間に制限がかかり、誰とも会わなくなり、自分のなかに凄まじい勢いで溜まっていく「現実」をどこにも出せなくて苦しくなったのかもしれない。苦しさから逃れる方法は「死」しかないと思っていた。でも助かる方法はもう一つあったのだ。
 やたらめったらなアウトプットを続けて、少し落ち着いた私に、友人たちはカウンセリングを勧めた。カウンセリングでは家族にも友人にも編集者にも言えないことを言っていた。面白いのは、最初は話すことがたくさんあり、聞いてもらえるのが救いだったのに、それがだんだんなくなり、「なんか行くの面倒だな」と思うようになっていったことだ。アウトプットがすんだのだ。

 もちろんそれだけで治ったわけではない。カウンセリングを通じて、保育園の親友達と繋がったり、シッターを雇って仕事時間を確保したり、アウトプットできるシステムを構築する必要にも気づいていった。
 
 そうやって「現実」のアウトプットがすみはじめた頃、私の中から、新しい何かを生み出そうとする大きなエネルギーが生まれていった。

 つまり「好奇心がない」「関心がない」「興味がない」という、あの死にたくなる前の最悪な状態は、実は、それほど悪いものではないわけです。
 いや、むしろ、何か生み出される前に必ず起こる、大事な「停滞」のようなものなのです。しかし、何も知らないで、そのことに接してしまうと、あまりにも辛すぎて死にたくなってしまいます。
(中略)
 さらに、何か生み出される前というのは、自信がなくなってしまっています。それは当然です。まだ存在するかどうか、存在していいのかどうか、誰も安心してみることができないものが出ようとしているのですから。不安定なのは当然です。しかし、こう言ったことが一つ一つ、死にたい要素として認識されているように感じます。

『自分の薬をつくる』坂口恭平

 希死念慮に襲われているときって、あくまで私の場合だが、自分が制御不能になっていく恐ろしさがあった。アウトプットする方へエネルギーが向かわずに、走ってくるトラックの方へ体が勝手に動くこともあった。それで、ああもう自分はだめなんだなと思ってしまう。あの頃の記憶は曖昧なのだけど、一つだけ覚えていることがある。

「この物語の構造にすれば面白く書ける」と確信した瞬間があった。希死念慮に襲われ始めてから二年たっていた。初めて自分の小説をドラマ化してもらった後で、あちこちから期待がかかっていた。誰より自分が自分に期待をかけていた。大きすぎる期待が、アウトプットを阻んでいたともいえるかもしれない。でもその期待に応えようと、無意識では私はそうとうに頑張っていたのだ。
 物語の構造が決まった瞬間、自分のエネルギーのすべてが、新しい何かをアウトプットする方へ、堰を切ったように一気に向かうのがわかった。ああもう「死」のほうへは行かないんだなと安心したのを覚えている。

 なんとなく知っていたこの感覚を、この本を読むことでようやく言語化できたような気がした。そしてこの二年近く、いやそろそろ三年になるか、「停滞」してしまっていたのも、「現実」がアウトプットされずに、莫大なエネルギーが溜まってしまっているせいなのだと思う。そのエネルギーを正しいほうへ向かわせるためには、アウトプットを阻んでいるものと距離を取ったり、排除したりすることが必要だった。
 そして、つい数日前、二年以上悩んでいた物語の構造が決まった。「まだ存在するかどうか、存在していいのかどうか、誰も安心してみることができないもの」をどうすればアウトプットすればいいかがわかったのだ。

 この本の面白いところは、創作者でない人にもアウトプットを勧めているところだ。その方法まで教えているところだ。創作を生業にしている人だけでなく、全ての人にアウトプットは必要なのだ。

 いま苦しくてたまらないという人は小説なんか書いてみたらどうだろうか。
 出版しなくてもいいし、誰にも見せなくてもいい。ただ書くだけ。会社員だった頃はそうしていた。書けば楽になれるから書いているだけだった。
 そしてもし、新しい何か、が書けたら新人賞に応募すればいい。