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既存システムの拡張をやるか、新規システム開発するか問題

こんにちは、まだ長編を書いてる朱野です。
12月には終わると思ってたけど終わらず、2月には終わると思ってたんだけど、それも終わらず、やばいなと思いはじめている。だが、焦ったところで終わらないので着々とやっていくしかない。

以前、こんな記事を書いた。

締め切りを守らなければ商業小説家として信用されないが、締め切りを守るために面白さを犠牲にすれば、やはり商業小説家としては短命に終わってしまうところが、この世界にはある。締め切りを破りまくっても(限度があるにしろ)書き上がった小説が100万部行けば全てが許されるだろうこともたしかなのだ。締め切りか、面白さか、その二つのどっちを守るかの葛藤の間に小説家はいる。

有料部分より引用

この記事のなかで私は、小説の内容によって工数が変わること、の工数をある程度見積もれるようになっておかなければならないこと、などを書いている。そして、この記事を書き終わってから、新たに考えたこともある。

工数を見積もれるのは「同じ商品(物語)をマイナーチェンジして作り続ける」場合だけではないのか、ということだ。たとえばシリーズものだ。1作目で物語設定も主要キャラクターもできあがっている場合は、2作目以降の工数も読みやすい。「二ヶ月で準備して、連載いけます」と答えやすい。私の場合でいうと『わたし、定時で帰ります。』はそうだ。シリーズものでなくても、たとえば一話ごとに新しいお客さんが来て彼らが問題をもたらす「お店もの」のパターンでお願いします、と言われた場合も作りやすい。すでにある既存のシステムに新規の要素を与えて拡張していけばいい。私の場合でいうと乗客の困りごとを解決していく『駅物語』がそうだ。厄介な同僚が次々やってくる『わたし、定時で帰ります。』も言ってみれば既存システムに乗っかったストーリーだ。こっちはどっちかというと怪獣が次々に襲ってくる「特撮シリーズ」に近いかもしれない。

だが、そのどれでもなく、書きたい思いだけが決まっていて、その思いを書くのにちょうどいいパターンもないとした場合、一から新しいシステムを作らなければばならない。これも私の場合でいうと『対岸の家事』がそうだ。「専業主婦がマイノリティになっていく世界」を肌感覚でわかってもらうために、どういう物語構造が必要なのか、そこから考えなければならなかった。私たちのなかに内面化されてしまった価値観を揺さぶるには、論理的な言葉を使った方がいいのか、非論理的な思いを叫んだ方がいいのか。作っては動かしてみで「だめだ」と壊し、また作って動かしてみては「これもだめだ」と壊して、その繰り返しだった。かなりしんどくて、最後は「しんどい」「投げ出したい」としか思っていなかった覚えがある。それだけ私にとって難しいテーマだったのだろう。完成したものを見てみれば、思っていた以上に単純な作りだったので拍子抜けしたが、そこまでいくまでに失敗作が死屍累々とする必要があったのだ。

途中で投げ出さなかった甲斐あって『対岸の家事』は文庫刊行後もゆっくり重版を続け、すでに四刷だ苦労はしたが「こういうのも書けるんだ」と思ってもらえた一冊になったと思う。だが、最後まで失敗続き、という可能性も十分にあった。何が言いたいかというと、こういうことだ。

新規開発の工数はまったく読めない。

だったら既存システムの拡張だけやってればいいではないか、と思いもする。工数の心配はしなくて住む。それはすなわち締め切りを厳守できるということでもある。すぐにお金が入る仕事にもなる。だけどそれだけやっていては、いつか自分がこの仕事に飽きてしまう。

新人作家のころ、西村京太郎さんと対談させていただいた。話の流れで「なぜ時刻表トリックをやるのか」をお尋ねしたら、西村さんは笑って「それしかやらせてもらえないからだよ」とおっしゃった。どこかのインタビューでも同じことを答えていた。西村さんはご自身で新規開発した時刻表トリックがヒットすると、それが既存システムになった後も生涯かけて拡張し続けた。だからこそあれほどの執筆ペースが保てたのだと思うが、同じことをやり続けるための強靭な精神が必要だったろう。読者に対するサービス精神ができなければできないことで「私には無理だな」と思った。自分はそれができる作家ではないとはっきり思ったのを覚えている。

だから成功するかどうかもわからない新規開発を頑張らなければならないのだが「いついつまでにできます」と言ったものができないとなったときの心が潰れそうになる感覚は何度味わっても嫌なものだ。

今やっている長編もどうにかして既存の価値観を揺り動かしたくて書いているのだが、物語の構造がようやく見つかったので、スピードアップして書いていたら、途中で止まってしまった。おそらくここまで書いてきた部分にバグがあるのだろう最初に戻って書き直していると、前回よりより登場人物がイキイキしていると感じるのに、やはり同じところで止まってしまう。止まってしまうというとネガティブに聞こえるかもしれないが、書き直してバグが無くなったからこそ「核」になる部分が見えてきたとも言える。ここまでに置いてきた言葉のどれかが、その「核」とマッチしないのだ。もう一度最初に戻ってやり直すしかない。

「また最初からか……」と自分の不甲斐なさに絶望している時、タイムラインに「重版しました!」「メディア化します!」という言葉が流れてくるとデスクに突っ伏してしまいたくなる。

昔、クライアントに出す資料を作っているとき、「君はよく何回も直せるね。僕にはできないよ」と上司に言われた。その上司が「直せ」と言ってくるから直しているだけだ、とその時はムッとしたが、広告代理店に長く勤めた上司がそう言うってことは、何回も直せる人はそんなにいないのかもしれない。そんなことを考えて自分を励ましながら、今からまた、ふりだしに戻る作業をする。これだけやっても駄作になってしまうかもしれない。報われないかもしれない努力をするのはしんどい。