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お仕事小説と労働小説

私の書く小説の主人公は働いている。物語も職場が中心だ。
だからか、デビューしてから十年、お仕事小説家と呼ばれてきた。そのことに抵抗というか、違和感を覚えてきたという話は、この記事でも書いた。

お仕事小説で女性の主人公を書く時に悩むこと

だが、「わたし、定時で帰ります。」というドラマが放送されている時に、Twitterで「私はこういう労働ものが好きだ」と書いている方がいて、そうか、私がやっているのはお仕事ものではなく、労働ものだったのだと気づかされた。

そしてこのシリーズの三作目となるライジングを刊行した後、書評家の北上次郎さんにこんな言葉をいただいた。

このシリーズ、第一作目では「お仕事小説」と誤読してしまったが、その仕事の内容がほとんど語られない「お仕事小説」はありえない。今回は仕事の内容が少し出てくるが、一貫してその本質は、その内容ではなく、働くということは何か、だ。労働論だ。そのモチーフがどんどん強まっている。

『本の雑誌』掲載「新刊めったくそガイド」/北上次郎

北上さんが指摘されている通り、「わたし、定時で帰ります。」の第一作を書いた時、私は意識的に仕事内容の説明を削った。どこまで削れるだろうかと考えながら、極限まで削ったのを覚えている。

それまで書いていた「お仕事小説」では、主人公の仕事を事細かに説明するのがセオリーだった。あくまで主役は人間ではなく「仕事」であり、他の「仕事」との差異を説明するのが、「お仕事小説」の原則だからである。
だが、全業種に共通するようなテーマ ーー 例えばサラリーマンが一日に必ず一回は考えるであろう「定時退社するか否か」の選択を主題に据えたかったら、仕事内容の説明はむしろ邪魔である。

仕事内容を調べていないわけではない。このテーマを書くにあたってふさわしい業種は何か、その業種の特殊性は何か、もちろん事前に調べている。前面に出していないだけである。(だがドラマではそうはいかず、小説で削られている仕事描写を一から組み立てていただくことになったのだが)

とはいっても、「お仕事小説」と「労働小説」の違いってなんですか、と尋ねられたら、はっきりと答える自信はない。どう言ったらいいのだろうと思って、言葉を探していた。そして最近、見つけたのである。

荻窪にTitleという個人書店があるのだが、その店主である辻山良雄さんが描かれた『小さな声、光る棚』という本の中の、「母の「労働」」という章にに、その言葉はあった。

 批評家の若松英輔さんは、『考える教室 大人のための哲学入門』という本の中で、ハンナ・アレントの「労働」と「仕事」という言葉に触れ、このように解説している。
 労働、すなわち労働のleborという言葉には、陣痛あるいは分娩という意味もあり、それは生命活動と深く結びついた営みである。お金を稼ぐ手段を示す仕事(=work)という言葉とは異なり、労働には人間の根源的な尊厳という意味が含まれる。
 若松さんの考えによれば、たとえ仕事はしていない状態でも、生きるという「労働」は、激しく行なっているということがありえるのだ。

『小さな声、光る棚』辻山良雄

この章は「労働とは何か」を考える上で、とてもすばらしい文章なので、ぜひ本を買って読んでいただきたい。私はこれを読んですぐに『考える教室 大人のための哲学入門』も注文した。

労働とは生命活動と深く結びついた営みである、ということまで私が考えていたわけではないが、上の文章を読んで「そうだな」と思われる方は私だけではないのではないか。
上の例で言えば、たとえば出産という期間限定の「労働」を「お仕事小説」という枠組みでメインにすることは難しい。「お仕事小説」という枠に入れようと思えば、その「労働」を行う妊婦よりも、サポートする側である産科医や助産師が主人公の方がふさわしいということになるだろう。

さらに、「お仕事小説」を書いていて思うのは、キャラクターが「仕事」を説明するための部品になりがちである。たとえば「潜水調査船のパイロット」を主人公に書く場合、「潜水調査船のパイロット」という職業を代表するキャラクターになるのだというプレッシャーが書く側にはかかる。職場の人間関係を描く際も、職人気質の潜航長、高い技術を持つ潜航長、といった具合に、その「仕事」をしている人たちの特徴を説明しやすい布陣にせざるをえない。また、その「仕事」をしている人たちが実際に存在する以上、その「仕事」を善きものであると帰着せざるを得ない。そうでなければならないというわけではないが、そうであることを「お仕事小説」という枠組みが、書く側に(というか、私に)要求してくるような気がするのである。

だが、「労働小説」は少し違う。主人公は就いている仕事を代表しなくていい。「この仕事はマジでクソだ」と言って終わることもできる。嫌な上司しか出てこなくてもいい。書いているのは「仕事」ではなく「労働」だからである。つまり「仕事」そのものではなく、それをたまたまやることになった人間のことを書きやすいのである。

「仕事」と「労働」の違いを考えるとき、私がいつも思い出すのは「シン・ゴジラ」で戦った自衛隊員が「仕事ですから」という台詞である。いかにもプロフェッショナルという気がしてかっこいい。そう、「仕事」って言葉はかっこいいのである。だが、そのかっこよさは、人間の存在を軽くするマジックがかかった言葉でもあると思う。
あれが「労働ですから」という台詞だったらどうだろう。「労働」ってあまりかっこよくない。だからこそ、そのために生命を犠牲にするってなんか変じゃないか? という居心地の悪さが生まれそうな気がする。

「生きなければならない」という意味が労働にはこもっているのかもしれない。たとえ「仕事」にありつけなくても、「仕事」から切り捨てられたとしても、「労働」する者は生きなければならないのだ。

といって、「お仕事小説」か「労働小説」かで、小説を分けることにあまり意味はない。多くの場合、二つのジャンルは、一つの小説の中で混ざり合っている。特定の「仕事」を具体的に描いていながら、普遍的な「労働」の問題についても考えさせる作品もある。どこからがカフェオレで、どこからがミルク入りコーヒーかの違いのようなものだ。そこにさらに「恋愛」とか「家族」とか「社会問題」とかさまざまな要素がブレンドされて、言ってみれば、スタバの飲み物のように複雑な配合で、小説はできている。

でも「労働小説」の要素が濃いめの作品の方が、私はたぶん好みなのだと思う。