あの人の記憶
あの人に最後にあったのはもう随分前で、あの人に別れを告げた時、私はもうほとんどその身一つだった。
キャリーバッグに衣装を詰めてアトリエを出ると、もうほとんど何ひとつ残ってないことに気がついて、からっぽになったこの身体をどう扱えば良いか、すっかり分からなくなっていた。
私は小さな踊り子で、アルバイトの絵画モデルだった。
ただ動かず、一点を見つめるだけでお金を貰えるその仕事は私にはとても便利で、食べるのに事欠かないためにそれをよくした。そしてある日、唐突にあの人に描かせてほしいと言われ、迷わずその提案を受け入れた。
軽い食事をしながら、金額の提示とその他打ち合わせをした後、あの人は私をアトリエに招き入れた。
その間2人きりで、私は自分で用意した、時には彼から用意された衣装を身に纏い、床に印をつけ、ポーズをとった。
あの人は私を、とても美しく描いてくれた。
気に入ったポーズが有れば写真を撮り、それをみて私がいない時も絵を描いてくれていた。私にはそれがとても嬉しかった。
キャンバスには私が鏡の前でする、私のイメージ通りの可愛い私が描かれていて、そんな風に私を描いてくれる人は2度と現れない、と思った。
私はあの人に会った瞬間、もうすでに好きだった。理由なんてなかった。これを人は一目惚れというのだろうか。
私はこの人のことを好きになるだろう。
そう思って好きになった。
彼にそう話すと、驚きながら笑ってくれた。そうか、そうなんだと、口の中で反芻し、はにかむような優しい笑顔を、私は一生忘れることはないだろう。
初めてキスをした時は、目を瞑るように指示された。その時、自分の胸に彼の手が置かれ、今私がされようとしていることを理解した。
怖くて目を開けると、目を瞑ってと言われてしまい何度か中断した。目を閉じる時に、唇がガサガサなのを思い出し、ひどく後悔した。暖房の効いた部屋で。風の強い冬の日だった。
モデルの仕事を中断して、彼の隣に座り身体を預けた私の腰に手を回わす。その慣れた手つきに、自分の身に何が起こるかを悟り、その身を強張らせた。
多少の経験はあったけど、本当に身体を許してしまったら、自分がどうなるかなんて全く知る由もなかった。
あの人は私よりひと回りほど年上で、そんなことも全てわかっていたようだった。
服の上から少しずつ愛撫して、一枚一枚丁寧に薄皮を剥ぐように、色々なものを脱がせていくのが上手かった。
あの人はおっぱいが大好きで、そして私の胸はそれなりに大きかった。
おっぱいを触りながら、柔らかい。と、ほっとしたような声色で言うので、下着は柔らかいものをつけるようにしていた。適度にくたびれて柔らかくなった下着たち。
服の上から下着の上から幾度となくふれ、たくさんのため息が漏れた。
あの人の、男性にしては少し小さい手のひらに、ちょうどすっぽり収まるおっぱいになりたかったのだが、それには少しだけ大きすぎてしまい、結果いつも彼は、大きいな、と言うのだった。
初めて身体を見せた時はとても恥ずかしかった。明るい蛍光灯の下、あの人の描いた絵たちに囲まれながら、彼にそうっと下着の肩紐を下ろされていた。
本来の体の形があらわになり、すこし小さかった下着から溢れるように出てしまったものを、驚きの混じった、宝箱を開けるような表情であの人は見つめていた。
私の方はというと、平然としてるフリをして必死で胸を張っていたけど、たまらなく隠したくなって下を向いてしまった。それに気付いたあの人はすぐに電気を消そうか?と言ってくれた。
そうやってしばらくの間は、暗い中での交接ばかりだった。
暗闇の中で、私たちは積極的だった。
ほとんど会話は吐息ばかりだったし、私は私で快楽のまま、声を出した。
あの人はあの人で、よく見えない事をいいことにおっぱいへの興味をそのまま私にぶつけ、乳房や乳首を弄んだ。
あっ。と声を出せば、その音がどこから生まれるか執拗に探る。その繰り返しで、自他ともにどこが気持ち良いかを知り尽くした。
彼はきっと女性が、女性とのセックスがとても好きだったのだろう。
女性のどこに気持ちの良い場所があるのかよく知っていて、その場所を様々な触り方で試された。そしてどこがどう感じ変化するか、私の表情や身体を見つめていた。
そしてそこに面白さと醍醐味を感じていたのだろう。当時、付き合ってる人はいないと断言しながら、開封されたばかりの避妊具は、自宅の、ベットのとなりの3段目の引き出しの奥にきちんと収まっていた。ベネトンのそれは、彼にいつもぴったりとついた。
男性の、素直すぎる率直な欲望を私は毎晩のようにぶつけられた。あまりの痺れるような快楽に泣き叫ぼうとも、彼は決してやめようとはしなかった。
感じているのなら、そのまま感じて。
その言葉は、私にとってはもう絶望に近かった。
指を入れると風船のように膨らむ場所を、あの人は好んでそこに入った。
あったかいと、優しい声でいう。
痛くない?と聞く時と同じ重さの優しい声で、私の中に滑り込む。満たされて満ち満ちてゆくのが分かる。
だからあの人は、あんなにも愛してると言うのだろう。
満たされてしまうのだ。悲しいくらいに簡単で単純に。人間はよく精巧に作られていることがよくわかる。
私だってたったそれだけで、絶望的に満たされていた。
貪欲に腰を動かして、彼を果てさせてしまうのも1度や2度ではなかった。
そんなに激しくしないでと言う声が遠くから聞こえた気がしたけど、無視をした。
あなただって、私の制止を聞かないじゃない。半ば怒りの混じった快楽の貪り合い。結局、ごめんね。というのは私の方だった。
私をあんな風に描く人はもう現れないだろう。かわいい子どもたちが、学生が、美しいマダムに老紳士が私を描いてくれていたし、時には舞台にも来てくれた。
舞台を終えると、いつも花束とお手紙があって、その時点で私は幸せだったのだ。
みな真剣に私を見つめてくれた。それが私のすべてだった。
私をきれいに彩り、キャンバスにしたためてくれたのはあの人だけで、それはとても狂おしい悦びだった。優しい言葉をもらって、頭を撫でられぎゅっと抱きしめる、本当はそれだけでよかったのに。
もう私は十二分に幸せだったから。
沢山の女性たちの絵に見つめられながら、彼女たちもあの人抱かれているのだと、快楽と理性の狭間で、まるでプールの底に沈むような薄暗い冷たい感覚を覚えながら、それを知るのは必然だった。
何で自分だけが特別だと思ってしまったのだろう。虚しさと悲しみと、強烈な怒りにも似た悔しさが襲ったけど、それはほんの一瞬だった。
私は小さな踊り子だった。
これまでもこれからもずっと、この身が耐えられるまでずっと踊り続けるのだろう。
あなたのためにはもう踊らない。
でも、あなたに触れられた身体はもう元には戻らない。
私はもうからっぽだった。
ただ生きるためだけに作られた外見は、本当はあなただけに見つめられたいと叫んでいる。
あの時、絶対に幸せになれない気がすると、初めて見つめられた時から感じていたのに、もうとっくに好きでたまらなくなっていた。
まだ何も知らなかった私は、この感情をどう処理したらよいか全く分からず、駆け引きもなくそのまま身体をぶつけていた。
気持ちが良いと声が溢れること、愛してるはまだ分からないこと、大好きなのに怖いこと、全部全部何も知らなかった。
次は、コンテンポラリーを踊ろう。
新しくきた振付師の顔を見ながら私は思う。
私はこの人を好きになる。
レッスン場の鏡越しに、あの人の面影をなぞりながら、はっきりと。
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