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育児は、遠い日の花火ではない。

夢を見た。
まだ3歳くらいの小さかった娘を連れて、近くの公園に行く夢だ。

肩掛けできる大きなトートバッグにタオルやボールやシャボン玉を入れて、普通に歩けば5分かそこらのところを、娘と手をつないでゆっくりゆっくり、途中立ち止まって生垣の花を見たりしながら20分くらいかけて歩く。
公園の遊具はまだ危なっかしいから、走り回る娘につきっきりで、時々小学生の子のボールが転がってきては冷や冷やしたりする。汗をかいたなと思ったら拭いてやって水筒のお茶を飲ませて。頭の片隅では「晩ごはんは豚肉を使い切ろう」とか考えて。
……そういう、特別なことはない、だけど子供が大きくなった今ではもう起こらない日常の夢だ。

夢って、映画でも観るかのようにストーリーを辿っていくものもあれば、もっと抽象的で断片的な場面やディテールがぐるぐる回るようなものもある。
私が見たのは後者で、はっと目が覚めたら生々しい感触や情報が頭の中を渦巻いていてしばらく何がなんだか分からなかった。

夢の中で持ってた水筒はだいぶ傷だらけになったが今も使っているし、公園近くのホームセンターで買ったピンク色のボールもまだ家にある。

あの頃はとにかくシャボン玉ばかりするので、ペットボトルいっぱいに液を作って常備してあり、公園に行く前には「みいつけた!」のコッシーの絵がついた容器に小分けにしていた。
洗面台の戸棚に、手作りのシャボン玉液のレシピを書いた付箋を貼っていた。付箋の色とか文字のディテールまで覚えているのに、その紙はもうない(それどころか引越したので洗面台が違う)。
コッシーの容器は蓋から液漏れするようになったので捨てた。

そんな感じで、沢山の情報が頭の中を渦巻いていた。時計を見たら午前2時だった。
こんなに鮮明に記憶にあるのに、よくある日常だったのに、もうああやって娘とふたり公園に行くことはない。
娘とふたりで散歩くらいはするし、下の息子はまだ現役公園マンなのだが、もうちっちゃい子につきっきりになるあの感じはない。

感傷というにはもっと生々しく、心臓を鷲掴みにされているように息苦しくてしばらく動けなかった。懐かしむにはリアリティがありすぎる。


往年の名コピーに「恋は、遠い日の花火ではない。」というのがある。

まさに「遠い日の花火」のような、「幼い子供と公園に行く」日々。
でも実際は花火なんて美しいものじゃないことを私は知っている。もちろん楽しい。でも楽しいだけじゃない。
いつ転んだりぶつかったりするか分からないし、よくわからん言いがかりをつけてくる人や変質者もいる。子供から目が離せず、火柱がそこかしこで上がるマッドマックスの世界だ。
そして私はこんなに生々しく思い描けるのに、もう娘と手をつないで公園に行くことはない。


娘はいま10歳で思春期の入口にいる。
あの頃つないだちいさくて柔らかな手は、もう私の手と同じくらいの大きさになった。
反発も多くなり、昨晩も宿題を巡ってやり合ったし、最近は不登校ぎみだったりもする。
行く末に楽しみなことばかりだったあの頃から随分と離れてしまい、これからもっと大変になるんだろうなとも思う。

夜中に目が覚めた勢いで綴っているので特に結論はないが、これからも火柱の中を駆け抜けていくしかない。
火柱が花火と思えるようになる、その日まで。

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