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Maids of All Work ――叛逆の使用人――



I マルグリットと窓のない部屋


 周囲の国々から高い山脈で隔絶された地にあるこの国においては、古くから貴族が絶大な力を持っていた。受け継がれてきた魔術が衰退するのと同時期に航空技術が発達し、人とモノの行き来が以前より活発になった現代においても、その社会構造、権力の分布はさして変化がなかった。
 貴族とそれ以外。使うものと仕うもの。
 貧しい民が生計を立て、あわよくば成り上がるための最も有効な手段は貴族に仕えることである。国内各地に存在する家政学院――平たく言えばメイド養成学校である――がそれを象徴する。
 アーバスノット侯爵家もこの国有数の名家の一つである。その名声と信望は格別であった。代々受け継がれた莫大な土地と事業、そしてそれを支える使用人の質の高さと彼らの待遇においてアーバスノット家の右に出るものはなかった。
 厳格で厳正な何段階にもわたる選抜試験を突破した物だけが執事やハウスメイドとして雇用されるとも、その試験内容は古代の科挙に匹敵するとも、末端の掃除人ですら一度採用されれば三代先まで安泰である、とも言われていた。もっとも細かな話は全て噂であり、その内情を知る者はほとんどいなかったのであるが。



 マルグリットはアーバスノット家の大きな屋敷に向かっていた。
 小高い丘を登って辿り着いた豪勢な門を潜ると、矢印の立て看板が数メートルおきに立っていた。屋敷の建物自体は敷地のさらに奥だった。これが大富豪かぁ、とため息をついた。
 周囲を見渡せば人種も年齢も様々な人々が同じ方角に歩いていた。皆マルグリットと同じ目的、二十五年ぶりに行われるアーバスノット家のメイド採用試験へと向かうためにこの屋敷を訪れた女たちだった。国中、世界中に撒かれた採用試験の告知には試験を受ける条件はただ一つ、「女性であること」と記載されていた。そして採用人数は一人。そう、たった一人である。
 しっかりと編んだブロンドの三つ編みが崩れていないかなんとなく確かめて、やっとたどり着いた荘厳な建物の扉を開けた。


「こんなにたくさんの人がいるなんて思わなかったなあ」
 マルグリットはコートをトランクに仕舞いながら自分の周囲を眺めた。ボールルームと見まごうほどに広く煌びやかな応接室には候補者がひしめいていた。そして皆さまざまなデザインのエプロンドレス姿。マルグリットも紺色のワンピースにささやかなフリル付きのエプロンを合わせていた。
「百人よ」
 隣にいた女の子が言った。赤毛をネットできっちりとまとめたお団子頭。マルグリットより頭ひとつ分低い背丈だが存在感――というより威圧感がある。
「ぴったり百人。家政学院の卒業生中心におそらく世界各地から来てるわ。あなたはどこから?」
「ああ、うん。この辺」
 人見知りというわけではなかったが、マルグリットは少々圧されてたじろいだ。
 入ってきたところとは違う、部屋の奥の扉がひとりでにギイ、と開いた。案内はないが、入れということだろう。
 お団子の彼女に続いてマルグリットが一番最後にその部屋に入った瞬間、再びギイ、と音がして扉が閉まる。皆荷物をその場に置き、身一つで後に続いた。
 振り返ると扉は跡形もなく、ただ白い壁だけがあった。



 リノリュームの清潔な白い床、白い壁、壁に埋めこまれた大型モニタ。応接室より一回り狭くなったこの部屋は少し動けば肩と肩が触れ合ってしまう程度には手狭だった。
 マルグリットが、扉があったはずの部分の壁を撫でると酷くさらっとしていた。
「あまり余計なことしない方がいいわ」
 隣の彼女が言った。さっきの赤毛お団子の彼女。
「あ、私?」
「そうよ、あなたに言ったのよ。隣で爆発でも起こされては困るもの。あなたいくつ? 十八は超えているでしょう」
 早口ではないが圧のある喋り、勝気というほどではないが自信に満ちた居住まいだった。
「こ、今年で二十だよ。あなたは?」
「ルシール・テイラー。先月で一八」
「マルグリット。マギーでいいよ」
「この部屋の四人に一人くらいはあたしのこと知ってると思うけど。貴女は違うのね」
「どうして?」
 ルシールの装いは質素な茶色のエプロンドレス。左胸で慎ましく光る小さなバッジがただ一つの装飾品だった。細かな字で『王立家政学院女子部第百十一期首席』と彫られている。
「すごいんだ」
「これでもね」
 ルシールは気恥ずかしそうに肩を竦めた。年相応の表情もするんだなあとマルグリットは少し嬉しくなった。
「でも私のお姉さまぐらいの年代の人がだいたいってところかなあ、年齡バラバラだけど年上ばっかり」
「見た目じゃ年齢なんてわからないでしょう。幾らでも弄れるんだから」
 横に居た黒髪短髪の女の子が呟いた。彼女もこの部屋の中では珍しくマルグリットと年近く見えた少女だった。美しい黒のワンピースとオーソドックスなフリルのエプロンに薄い顔立ち。質素だが人目を惹く。
「何言ってるの、この国じゃあピアス穴を開けることでさえ禁忌だわ」
「もちろんこの国じゃあそう。けどここにいる全員が地元の人間だという根拠はどこに?」
「……あなためんどくさい人ね」
 ルシールは露骨にムッとした。
「あなたに言われたくないけど」
 溌剌としたルシールと落ち着いた彼女が並ぶと対照的で絵になるなあ、とマルグリットはぼんやり思った。
「私マルグリット。マギーって呼んで」
「……アレクシア・コックス」
 ぶっきらぼうだけど落ち着きのある喋り方。まじまじと顔を見るとまつ毛が長く、きれいな容貌をしていた。背はマルグリットと同じぐらいで、痩せ型だが体格も悪くない。ドレスなんかが映えるだろうな、と思うと自然と笑みが溢れた。マルグリットは学生の頃から同級生を飾り立ててやるのが好きだった。
「私はルシール・テイラー。よろしく」
「よろしくも何も、全員ライバルなんじゃないの」
「あら、何事もまずは挨拶からでしょう? 私は他の初対面の方々にも挨拶しに行ってくるわね」
 ルシールはスッと立ち上がると人の群れを掻き分けて別の集団のところへ行ってしまった。
 周囲は未だ呑気に噂話に興じていた。
「ねえ、アーバスノット侯爵ってどんな天使と契約してると思う……?」
「そんな話信じてるの? さすがにマンガの読みすぎ」
「でもああいうのって史実が元ネタって言うし、アーバスノット家ぐらいすごい家ならあってもいいでしょ」
 近くの一団からそんな声が聞こえてきた。
 マルグリットは「幼い頃におばあさまから聞いた話と似ているな」と思った。
 未だ王侯貴族と魔術が密接に関わっていた時代、家の跡取りは人ならざるものと契約を交わし、交渉を有利に進めるために力を使っていたという。
 今でもその名残で「あの家は悪魔に魂を売ったんだ」とか、「あそこの娘さんが天使に見初められて火事から救われた」とか、「没落貴族が貧民階級に堕ちた後天使や悪魔と見境なしに契約して、復讐を狙っているらしい」とか、噂のようなお伽話やお伽話のような噂が幼い子の枕元や、はたまた祝いの席で語られる。

 バツン、と音がして突然モニターが明るくなった。
 映ったのは黒い髪の男の顔。
「アーバスノット家へようこそ、候補者の皆さん。私がアーバスノット家第一三代当主です。直接のご挨拶叶わないことを心苦しく思います。試験に合格された方には改めて直接ご挨拶に伺いましょう」
 男はモニターの向こうで恭しく頭を下げた。
「この採用試験のルールはシンプルにこうです。この中にいる『冒涜者』を探し当てた者一名を合格とします」
 静謐だが力のある喋り口。人の上に立つ者はかくあるべしと、誰もが思う立ち振る舞いだった。
「この国における『冒涜者』。旅の方はご存知ないかもしれませんね。我が国では、神の作り給しものを改変すること、破壊することが何よりの禁忌です」
 ルシールもマルグリットも格段の驚きなく聞いていた。アレクシスも無反応だった。
「刺青、美容整形、あるいは自死。神の御技をヒトの手で歪めてはならないということです。かつては生命維持のために身体にメスを入れることすら恐れられたといいますが、今はそこまでやる時代ではないということですね。ああ、それと解答権は一人一回のみです。早抜けですが早押しクイズではないので、慎重に答えていただければと。不正解だった方は、誘導をお願いしてありますので、部屋から御退出いただきます」


Ⅱ マルグリットと光の天使


「アーバスノット侯爵ご本人、初めて見た」
「私もよ」
 初対面の全員と顔を合わせてきたらしくルシールはマルグリットの隣に戻ってきていた。
「そんなに騒ぐことなの」
 アレクシスは露骨に眉をしかめていた。
「ええ!」
 隣で噂に興じていた女たちがアレクシスに話しかけてきた。
「SNSをお使いにならないからお顔を見るのは貴重なの」
「新月の夜のような黒髪の貴公子って噂は本当だったんだ」
 もはや会場は試験よりも、アーバスノット侯爵の姿を見たことで浮き足立っていた。
 しかしマルグリットがざっと見渡しても、集められた百人の女たちのうちピアスや刺青をしているような者はいなかった。そもそもそんな露骨な特徴があれば国境で止められるはずだ。服を脱いで確認する? まさか? とマルグリットが考えてあぐねていたところで、
「状況を整理しますね」
ルシールが恭しく挙手をした。
「まずこの部屋の壁には窓も継ぎ目も換気扇もありません。換気が全くされていません。長時間この部屋に滞在すれば、酸欠か飢餓状態になります」
 周りがどよめく。マルグリットも素直に動揺していた。
「えぇ、そっか、そうだよね、ヤバイよねこれ」
「はぁ」
 アレクシスが相変わらず呆れた顔でため息をついた。そして、
「冒涜者はアレクシス」
 全員が彼女の方を振り向いた。
 その表情は相変わらず薄っぺらいままだった。
「だってこうしないと何にも進まないでしょう」
 ハズレでぇす、という素っ頓狂な機械音声がどこからか聞こえた。そしてバツン、と再びモニターが明るくなる。侯爵の顔が再び映る。
「最初の脱落者ですね。では『これ』に誘導していただきましょう」
 これ? と皆が思った時、頭上に閃光が走った。
 現れたのは、六つの羽と四本の長い腕を持った真っ白の何かだ。
「私が契約している『天使』です」
 言われてみればそう見えなくもない。マルグリットの知っている天使は小ぶりな羽のついた金髪くりくりの赤ちゃんだけれど、まあ、羽あるし光ってるしだいたい合ってるのか……と思うことにした。
 二つの空洞とアーチを描く裂け目のある部位が上部にあり、それがかろうじて顔かな、と推測することができた。それが笑っているのかどうなのかはわからないが。
 アレクシスはちょっと肩をすくめると、スッと立ち上がった。左手がしなやかな線を描いたかと思うと、手が伸びた方向には『天使』がいた。次の瞬間には彼女の姿は部屋のどこにもなかった。
 その一部始終を見た候補者達は、暫し茫然としていた。



 それから進展のない時間が続いた。
 ポツポツと雑談に興じる輪があったが、皆どこか上の空であったし、解決策はどこからも生まれなかった。
「ルシールってさあ」
「何かしら?」
「喋り方が古風だよね」
「え、バカにしてる?」
「ううん、全然。おばあさまに良く似てるなと思って。っていうか、おばあさまの本棚にあった小説の喋り方に似てる気がする。私は懐かしくて好き」
「ああ……学校にあった本を片っ端から読んだからかしら。古い本ばかりだったから」
「学校って、家政学院?」
「そうよ。そこしか通ってないもの」
「そっか」
 突然マルグリットの肩を叩く人があった。
「ねえ貴女」
「ん?」
「やっぱりそうね! 貴女マルグリット・ウィルソンでしょ」
「え? ああ、まあ」
「どうしてこんなところに? とても遠かったでしょう? おじいさまとおばあさまはお元気かしら」
「……マギー、彼女は?」
 勢いよく突っかかる彼女にルシールも少し引いていた。
「初めまして、アンジェリーナと申します。数年前までマルグリットさんのご近所に住んでいて。おじいさまにはとてもお世話になったんです。覚えていらっしゃらないかもしれないけど」
「あぁそういう」
 ルシールは咄嗟に人間関係相関図を頭の中で描いて納得した。大方地方の権力争いに負けて没落した元貴族の人間の逆恨みだろう、とあたりをつけた。
「マルグリットさん、どうしてここに? あなたのお家からは随分遠くだけど」
「どうしてって……採用試験を受けに」
「だからそれがどうしてって聞いているの。わざわざ人の下で働くことなんてないじゃない。ねえマルグリットさん、正真正銘の没落名家や貧民のメイド志願者を嗤いに来た、って言われてもしょうがないお家の人なのよ貴女。自覚したら?」
 マルグリットは目を逸らさず、けれど何も言い返さなかった。
「冒涜者はマルグリット・ウィルソンです。こんな人間、神への冒涜行為を重ねてたって不思議ではない。違いますか」
「違いまぁす」
 素っ頓狂な機械音声と共に、『天使』が降りてきた。
 アンジェリーナは自分を掴もうとしたその腕を跳ね除けた。
「やめてよ!」
 アンジェリーナの腕が『天使』を薙ぎ払った。ぼろり、と腕が一本落ちる。
 抵抗するたびに天使はエスカレートしていった。
 剣のような形状の光がアンジェリーナに降り注ぎ、その数は増えていった。手で薙ぎ払いきれなかった剣が喉に突き刺さってアンジェリーナはその場に倒れ、動かなくなった。茫然とするマギーを押し除けてルシールが彼女を蘇生しようと駆け寄ったが、その手が触れる寸前に、天使が彼女の身体を抱え、外へ出て行った。


Ⅲ ルシール



「あなた、貴族なの」
 ルシールはほんの少し目を見開いていた。
「形だけの爵位と遺産で食いつないでるど田舎の低級貴族だけど、うん、そう。わたしのこと知ってる人がいるなんて思わなかったなあ」
「へえ、まああんなの気にすることないわ。どう考えてもあいつの方が失礼だもの。マギーはマギーの家で生まれて生きてただけだわ」
 実際、ルシールはマルグリットよりも素直に憤慨していた。
「ああいうの、自分の立場に誇りや矜恃を持ったり、誇りを持っているつもりでなんとか自分を奮い立たせて生きている人間に対してあまりにも失礼。ていうか自分ちの使用人にもそんなこと思ってたんだとしたらとんでもない話よ」
「……うん、ありがと」
 ルシールはバッサリと言ったが、それにしたってマルグリットは少し居心地が悪く、話題を変えたかった。
「にしても『天使を召喚する貴族』の話って本当だったんだな、ってびっくりした。昔話でしか聞いたことなかったから。すごいよね」
「そんな良いもんじゃないと思うけど、人外と契約だなんて。見た? あいつら平気で人を殺すのよ」
「そうなの? 夢があるなって思うけど。まあめっちゃ怖いしもうちょっとカワイイのがいいなとは思うけど」
「めっちゃ怖いと思ってる人の台詞じゃないわね」
 ルシールの言葉は正しく、呑気に雑談をしている者はこの部屋にはもういなかった。
 動揺した一人のメイドが適当な名前を言って部屋から出たのを皮切りに誤答の連続が始まっていた。
「こんな所で死にたくない!」
「アーバスノット家のメイドになれるならそのための試練なんて安いわ、でもまさか殺されるなんて思わないじゃない」
 悲鳴混じりに口々にそう言いながら皆出ていき、そうして部屋の中はマルグリットとルシールの二人きりになった。



 人が減ったとはいえ、経った時間の分だけ酸素が減ってきた。喉の乾きもひどく、二人とも疲弊していた。もともと身体の丈夫で血色の良いマルグリットのほうは幾分ましだったが、ルシールのほうはかなり澱んだ顔になっていた。表情には出すまいとしていたが。
「おしゃべりはこれで最後にしたいんだけど」
「うん」
「あなたは何で諦めないの? 別にこの試験でなくたって、メイドとしての働き口はあるでしょう」
 ほんのちょっと考える。なるべく簡潔に答えようとマルグリットは言葉を選んだ。
「困ってる人のために働きたいから。アンジェリーナの話で分かったでしょ。下級貴族ってどうしようもないの」
「ふうん?」
「あ、今お人好しだって思ったでしょ」
「……ふふ、分かってるじゃない」
 二人は鏡写しのようににやり、と笑った。
「……あのね、こんなヘンテコな試験を突破しないと雇わないなんて、何かあると思う」
「何か?」
「お金と時間を持て余して何不自由なかったら、こんなこと思いついて実行なんてするのかな。アーバスノット侯爵は何かに困っている人だと思う。それが何かは分からないけど」
「だからここで働きたいの?」
「そう」
 マルグリットは微笑んで見せた。
「マギーって本当にお人好しだわ」
 ルシールも少し笑った。
「世の中には本当のトンチキな愉快犯がいるし、恵まれた境遇にある者ほどほんのちょっとの損に敏感だし、ね、そんな人たちも何かに困っていて、そのためにまた誰かを困らせているんだと思う?」
「うん。突き詰めて理由がどこにもなくたって、『そうである』ことに困っていると私は思う」
「ああ、そう」
「ルシールは? ルシールはどうして諦めないの?」
「私? 私はここじゃないとダメだから」
「ここじゃないと、ダメ?」
「そう。今の私に今すぐ必要な額のお金が稼げそうなメイドの仕事、ここぐらいしかなくて」
「お金が必要なの?」
「そ。私売られるかここで働くかしかないの」
 ルシールはあっけらかんと言い、ゆっくりと立ち上がった。
「さあ、終わりにするわ。冒涜者は――」



「アビケイル・スミス」
「ハズレでぇす」
 候補者達を外に出してきたあの『天使』が降りてきた。
 ルシールの手に触れようかというところで、ルシールの口から、『聴き取れない言葉』が紡がれた。
 それが『天使』の召喚呪文だった。ルシールの『天使』は蝶のような4枚の羽をはためかせて宙に浮きあがった。
 ルシールの『天使』が侯爵の『天使』を弾いて光の粒にする。それが収縮して再構築される間に、
「ベッキー・モーガン」
「ベロニカ・ブラウン」
 ルシールはAから順にこの部屋にいた候補者の名前を唱えていた。その度に侯爵の『天使』はルシールに六つの腕を延べ、ルシールはそれを跳ね除け、『天使』に砕かせる。
「ルシール、何して……!」
「ルール違反は即退出だけど、ルール違反は不合格、とは言われてないでしょ? これ位で驚かないでよねマギー! 候補者全員の名前ぐらい覚えてるわ! 覚えたのよ、さっき! ……ザラ・ホフマン!」
「ハズレでぇす」
「……ぁああ!! もう!!」
 ルシールは慟哭した。
 マルグリットも静かに驚愕していた。
 ルシールが叫ぶ名前の頭文字がZまで来ても、その中に正解はいなかったのだ。



 あとは『天使』と『天使』の持久戦だった。
 単純な攻撃の速度と量だけ見れば互角の戦いに見えたが侯爵の『天使』は再生が早く、ルシールの『天使』はわずかにそれに追いつかなかった。
 再生の途中に光の剣が刺さって、ルシールの『天使』だったものは完全に崩壊し、消滅した。
 ルシールに『天使』の腕が伸びる。光の剣も降り注いでいる。
「ああ、天使様」
 ルシールは目を伏せながら言った。
「お願い。お願いがあるの」
 恭しく手を組み、膝をついた。
 祈るように、彼女は願う。
「ここのメイドにしてくれないぐらいなら殺して。だってそうでなければ――」
「やめなさい」
 どこからか声が聞こえたのは。
 止まない光の剣の一本がルシールの胸を貫こうとした、その瞬間だった。
 『天使』が一瞬モニターの方を見上げ、光の剣は地面に落ちた。矛先はルシールからほんの少しそれ、床に吸収されていった。
 ルシールは静かに床にくずおれた。『天使』は六本の腕のうち三本でルシールを掴む。抵抗する体力はもうどこにも残っていないようだった。
 そのまま外へと消えて行き、マルグリットが部屋に一人取り残された。



Ⅳ マルグリットと窓のない部屋



 部屋の中は静まり返っていた。モニターの機械音だけが聞こえる。
「ルシールを殺さなかったのは、何故ですか」
 マルグリットは何も写っていないモニターに向かって語りかける。
 ここで働くか売られるかしかないと言ったルシール。
 メイドにしてくれないなら殺してと願ったルシール。
「殺さなかった?」
 それはノイズの酷い声だった。『天使』を止めたあの声と同じ。柔かで慇懃なモニターの音声でも、脱落を告げる素っ頓狂な声でもなく、わざとらしいほど聞き取りづらい、ざらざらブツブツとした声。
「私は最初から誰も殺すつもりなんてない。アンジェリーナも、『天使』が加減をしなかっただけだ」
 マルグリットは少し唇を噛んだ。
「……」
「『天使』は契約者の分身ではない。まして人理を超えた存在」
「でも、ルシールは、ここで働けないなら、きっと……彼女はきっと、もっとひどいところに行くんです。今よりここより、ずっと」
「慈悲があるのなら、この部屋の外に出た彼女の命運をたやすく察することができるなら、彼女に手をかけるべきだったと人は言うかもしれない。しかしその選択を、思想を、わたしやあれは背負わない。背負う義務も、権利も持たない。私にできることは、私だったらこう生きるということを私自身の生で体現するだけだ」
 紡がれる言葉に一瞬の間。
「私自身のために」
「あなた自身の為に?」
「そう」
「私は……私は、生きることが一番大事だとは思わないので」
 マルグリットは訥々と言葉を選ぶ。
「誰かから何かを奪いながら生きるのも、それに気づかないのも、嫌なんです。そんな生き方するくらいなら自分なんていなくなってしまえばいいと思う。ルシールだってきっとそう。望まない生き方をするくらいなら、この先つらくて苦しいばかりなら、生きていたくないって、あの子は心で叫んでいた」
 返答はない。
「けれどあなたは、どうしても生きていきたいんですね。虐げられようと、酷い目に遭おうと。よりよい生を生きていたいと考えている。それが自分の生であるなら」
「そういうことだ」

 薄くなる酸素の中、マルグリット・ウィルソンは考えた。
 侯爵は「この中に一人、冒涜者がいる」と言っていた。
 そして連れ去られたメイド候補者百人の中に冒涜者はいなかった
 もし、アーバスノット侯爵が嘘をついていないのであれば。
 この試験が破綻していないのであれば。
マルグリットに考えられる答えは一つしかなかった。
「ようやく分かった。冒涜者はアーバスノット侯爵、あなたなんでしょう?」
言い終えると同時に彼女はその場にへたりこんだ。


「大正解」
 それは天から降ってきた素っ頓狂な声でも、ひどいノイズの入った声でもなかった。
 そしてそれは聞き覚えのある声だった。
 継ぎ目の全く見えない壁が開く。現れたその姿はテーラードジャケットを身に纏っていた。エプロンドレスではなく。
「はじめまして。私がアレクサンダー・アーバスノットです…………ああそれとも」
 夜闇を思わせる黒髪は呑み込まれそうなほどに美しかった。
「アレクシス・コックスと言った方が良い?」
 黒いエプロンドレスの、彼女と同じように。



 マルグリットは混乱していた。
 モニターに映っていたアーバスノット侯爵。黒いエプロンドレスを纏っていたアレクシス。そして今マルグリットの目の前にいる、「アレクシス」とも、「アーバスノット侯爵」とも名乗った人物。
 面影はある。目の前の人間はモニター越しに見た侯爵の妹だとでも言われれば納得できる。しかし同一人物とはとても言えない。
 侯爵が「もういい」と一言告げると天使がその場に現れ一回転した。
 たちまち部屋の等間隔に窓が現れ、それが一斉に開いた。
 レースのカーテンが嘘のようにたなびいている。
「……窓が、一瞬で」
「逆。窓を『天使』の幻視魔法で隠していただけ。冒涜者を当てたのはまさかまぐれ?」
 はぁ、とため息をつく。
「冒涜者は私。アレクサンダー・アーバスノットは男の身体で生を受けたけれど、どうしても女として生きたいと願った。私の魂の器は『女』であると、私自身がよく知っていたから。そして女の身体に作り替えた」
「そんなこと、どうやって」
「『天使』の力」
 侯爵は横に控えていた『天使』を撫でる。そうしていると飼い慣らされたペットの犬や馬のようにも思えなくもなかった。腕は四本あったが。
「女のために誂えられた服を着ることや幻視魔法で女に見せることはできるけれど、それでは足りなかった。だから直接変形を施した。今はもう身体の隅から隅まで女。確認してみる?」
「かっ確認、って、何をどうやって!?……っ」
 侯爵はマルグリットの腕を鷲掴みにすると、自分の喉へ持っていった。
「喉仏。無いでしょう?」
「……ほんとだ」
「人の理の中で、この国の理の中で生きる誰かに、私の願いの結果を背負わせることはできない。だからあれの力を借りて私自身の身体を改変した」
 侯爵は静かに手を離した。
「冒涜者とは「身体に加工を施した者」。施した結果生まれた存在であるアレクシス・コックスの名前を言っても無効だった。全員の名前を覚えているくらいなら、仕えるはずの侯爵の名前も覚えているはずだったのに、ルシールは後一歩足りなかった」
「えっと、待って、じゃあ、モニターの侯爵は………?」
「ちょうど一ヶ月前、私がこの私になる日の朝に収録した」
「な、なるほど」
「ルシールと話していたときも思ったけど、貴女もう少し落ち着いて考えたら? 本当に一歩間違ったら残っていたのはルシールだったと思う」
 呆れた、という風に侯爵はため息をついた。
「えっと……採用、なんですよね」
「そう。採用」
「でも、でも! ルシールはここじゃないとダメだって言ってました。私じゃなくてーー」
「ルールは説明したでしょう。冒涜者を見つけた者が合格。ルシールは見つけられなかった。それだけだ」
 開かれた窓から冷えた空気が入り込んできた。エプロンドレスだけのマルグリットには少し涼しすぎて身震いをした。侯爵はため息をついて、自分のジャケットを脱いでマルグリットの肩にかけた。
「……私、これから何をするんですか。あなたは、これから」
「私はもうアレクサンダー・アーバスノットの名前を名乗らない。家も財も全て捨てる。私はこの部屋を出たらアレクシス・コックス。女性として生きていく」
 高い山脈で隔絶された地にあるこの国においては、古くから貴族が絶大な力を持っていた。現代においても、その社会構造、権力の分布そのままであった。貴族とそれ以外。使うものと仕うもの。
 アーバスノット侯爵家もその権力構造名家の一つである。数ある侯爵家の中でもその名声と信望は格別であった。代々受け継がれた莫大な土地と事業、そしてそれを支える使用人の質の高さと彼らの待遇においてアーバスノット家の右に出るものはなかった。
 それを全て捨てるほどの願いだった。
 その重みを、マルグリットは理解した。
「『神が創造したものを改変してはならない』というこの国が最も大事にしている教えに反した『冒涜者』。私は国から追われる。追い出されるだけでは済まない。それはもう、地の果てまで追いかけられるだろうね、マルグリット・ウィルソン」
 白い頬にニヒルな笑いが浮かぶ。
「知りたいのではなかった? 私がこんな試験をしてまでメイドを、たった一人のメイドを欲しがった理由を」
 マルグリットは静かに首肯する。
 その言葉の続きを待った。
「私の逃亡には仲間が必要。勇敢で、思慮深く、そしてこの罪を知ってなお逃げない、仲間が必要だった。この苦しみを知っても逃げない、あなたが」
 マルグリットに真白い手が差し出される。
「私のメイドになってくれるか、マルグリット・ウィルソン」
 差し伸べられた手をマルグリットはしっかりと掴む。
「はい、お嬢様」
 息苦しいこの場所から逃げ出すと決めたその日を、その手の温度を、彼女は生涯忘れない。
 

Special Thanks N.T(プロット提供を受けました!ありがとう!

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