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たのしい気持ちを貯める時期

 短歌を作ることに憧れ、善は急げと言いながら早速作り始めたのが今年の春くらいだった。しかし結論を言うとその趣味はもう続いておらず、誇張なしにマジで3日で終わった。
 原因はわかっている。よくできたなと思った作品をとあるサイトにアップしたら、知らない人から技術的な講評がついたことで落ち込んだのである。
 えっそんなこと? と思うかもしれないけど聞いて欲しい。作歌歴の長い人からの、飾り気のない口調で、しかしかなり正しい指摘だった。作歌3日目の人間にとってその指摘を受け入れて糧とすることは感情的にも技術的にも難しかった。人生のうちに5個くらいしか作ったことのない短歌のうち一番出来のいいやつを、心の準備ができてない時に、誰だか知らない人に突然ビシバシ指導されたら、びっくりして泣いちゃうことは、そんなに珍しいことではないように思うけどどうだろう。人によるとしか言いようがないか。
 ただこれはインターネット上の不幸な交通事故みたいなもので、私は歌会という文化ではけっこう普通に「講評」が行われることを知らなかったし、それを知らずに投稿したし、講評してくれた人は私がそんな初心者マーク君だということを知る由もなかったのである。さらに私は女性二次創作同人のような「身内褒め合い」文化に馴染みがある人間である(女性同人界隈、普段は同調圧力とかお世辞とかがめんどくさいと感じることもあるが、その時ばかりはそういう文化にもいいところがあるんだよなと再確認した)。
 その後の私はもとどおり小説のみを書く人に戻り、今も書いている。その人から貰った指摘はどんな創作物にも通じるもので私の癖なのだなあと思うので、小説を書くときにも時折思い出したりしている。
 結果、私に指摘をくれた人のおかげで私の創作技術は向上している。
 ただこの世界から短歌を作る人間が一人減ったということも事実である。

 昔の話をする。高校のとき所属していたオーケストラ部はかなり実績があり、周りもなんだかんだそれなりに自信がある子が多かったような気がしているのだけど、いつだったか、「他校との交流演奏会で講評用紙にアドバイスを書いてはいけない」ということを言われた。その頃は「おk(disが駄目なのは当然だけど優しく『こうしたらよくなるよ』もダメなのか……へぇ……)」と思ったのだけれども。
 今となっては言われた意味がよく分かる、絶対にアドバイスを書かないほうがいい。だって交流演奏会は演奏を聴いて楽しむ機会で、他校の生徒からのアドバイスを受けとる心の準備なんてして来てないはずだもの。特にうちの高校から渡る講評用紙は「実績のある高校の生徒からの指摘」という上下関係っぽい構造が生まれるので、さらによくない。
 ……まあ、他校からうちへの講評の中にも結構ボロカスのご指摘があって、一緒に読んだ友達と「なんだお前エラそうに」ってなったんだけど、「なんだお前」ってなれるのは結局自信があるからで、そうでなかったらびっくりしちゃうのも泣いちゃうのもよくあることである。短歌初めて作った私みたいに。

 アドバイスしてほしいと言ってくれた人でさえ、必要としているのはアドバイスじゃないこともあるよね、何かを始めた人がそれを続けてうまくなっていくために一番最初に渡してあげるとよいものって、それじゃないよね、という話をしたい。

 私の尊敬する人の一人にイラストレーター・さいとうなおき先生がいる(親しみと敬意を込めてさいとう先生と呼ばせてもらう)。さいとう先生のイラスト添削動画が本当に面白く、技術的にも高度なことを飲み込みやすく解説してくれるので頻繁に視聴しているのだが、特に好きな回がこれである。

 (おそらく)まだ若い投稿者のイラストに対して、技術的に的確なアドバイスをすることをあえてせず、「自分だったらどう描くか」を見せる、というスタイルで動画が進んでいく。投稿者の描きたかったキャラクターの雰囲気や表情をうまく読み取り、最終的に「間違いなく同一人物」だとわかるキャラクターが先生の画力で再現される様子が圧巻なので是非見てみてほしい。
 「初心者や若い人に技術的なアドバイスをあえてしない」「なんなら求められてもしない」「この人が受け取れる量のアドバイスはどのくらい?」という匙加減が、こういう講座や「先生」という立場をやるうえではかなり重要なのだと思う。たのしい気持ちを貯める時期の人には、技術的なアドバイス以上に、ただ自分が楽しく上手に取り組んでいる姿「だけ」見せることが一番効果的な場合もあるのだ。

 アンチコメントや誹謗中傷、失礼な物言いが良くない行為であることは当然として、そうではない「技術的な指摘」も常に「正しい」わけではないということを、段々と大人になる私たちは胸に刻まなくてはならないのだと思う。
 そして、いつでも初心者として何かを始めることができる私たちは、そうした「技術的な指摘」をまだ必要としていないときに、うっかり求めていない人から受け取ってしまったときに、うまく心を守らなくてはなくてはならないのだと思う。

 思えば今私が楽しんだり上手くなったり、上手くならなくとも楽しみ続けていられていることの多くは、初心者の頃に水を差されることなく、たのしい気持ちをたくさん貯められたことのように思える。

 たとえば私は何年かバイオリンをやっていて、周りにはいつも上手い人が沢山いたけど、大学に入ってからもそうだったけど、本当にほんとうに必要なときにだけほんの少し教えてもらってあとは自由に楽しく一緒に演奏していただけだった。それがものすごく楽しかったし、今上手くなりたいと思ってレッスンに通っているのはそのたくさんの思い出のおかげだ。

 たとえば私は大学で初めて文芸サークルに所属した。当然周りには自分より長期間にわたり小説を書いている人の方が多いのだが、その人たちが私のダメなところに口出しすることはなくて良いところや向上したところだけ見つけて褒めてくれるので嬉しいしありがたい。

 たとえば私は大学四年生から絵を描き始めて細々同人活動が続いている。リアルにもネットにも絵が上手い知り合いは沢山いるけどありがたいことにいい意味で放っておいてくれているので、だからこそ楽しく続けていられるし、周りの神絵師のことも変わらず尊敬し続けていられる。嫉妬に狂ったりせずに。

 たとえば私は昔からかわいい服を買ったり着たりするのがけっこう好きで特にチェックのワンピースを沢山買って沢山着ていた。その頃の服は身体に合っていないものも多かったけど、今は度重なる断捨離を経てもっと自分に似合うししかも気にいる可愛い服を選べるし、コーディネートアプリの非公開アカウントには自分のお気に入りの組み合わせがたくさんあるけど、今そうなれたのはやっぱり、ただただその服かわいいね! と褒めてくれた友達や「またチェックのワンピース〜?」とやや呆れつつも放置してくれた家族などのおかげだと思う。

 なんなら、今だってたのしい気持ちをひたすら貯めていくべき時期なのかもしれない。ファッションなんか特に。最近ロリータ服に挑戦しようと色々買い揃えたり、かと思えば私服はシンプルなのが着たいな〜黒無地のワンピースっていいよな〜と思い始めたりしているし、いまも初心者できっとずっと初心者である。それでいいしそれがいい。私はね。
 人間いつだってたのしい気持ちを貯めていって損はないし、そういう中で上達への意欲は案外すんなり生まれたりする。

 あとここまで書いて、「身内からのアドバイスって的確であっても関係性を崩す行為かもしれないよね」という別の問題に行き当たった。そういう点でも、「技術的な指摘」は常に正しいことじゃない、という結論が出せる。『イラストの色収差ってどうやってかけてるの?』『いつもかわいい靴履いてるけどどこで買ってるの?』ぐらいの高い解像度まで落とし込んだ質問に対する回答でもない限り、関係値が近い人間からの言葉ってなかなか扱いづらいものでないかと私は思うんだけどどうでしょうか。

 とりあえず私自身としては、もし今後たとえば私の友達の誰かがバイオリンや小説や絵を始めて私に「教えて!」と言ってくれたとして、私は絶対に絶対にバイオリンや小説や絵のアドバイスなんかしないぞ! と、心に決めた。
 ただ「あなたと一緒に趣味が楽しめて嬉しい」ということだけ。それだけを、しつこいくらいに沢山言うことにする。

 たのしい気持ちを貯めたから今がある。上手くなるためのしんどい気持ちも、たのしい気持ちの貯金のおかげで超えられる。きっとたのしくなるって分かるから。
 短歌を読んでたのしい気持ちや作ってたのしい気持ちを全く貯めずに不運な事故で匙を投げた私みたいな友達ができれば増えないといいな、と思っている。
 そして、もしかしたら短歌を作るのも楽しいのかも?と私が再び感じられるようになるまで、とりあえず今はたのしいこと以外は一旦忘れてバイオリンや小説や絵やかわいいお洋服を思いっきり楽しむことにする。それでいいしそれがいい。

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