見出し画像

政治的利益享受とその対価の暴走の可能性、快楽的判断低下。






政治に於ける平等性を主張する事は、民主に対しての利益の対価とそのリスクを高める事と同等である。
人が政治に於いて平等を主張する場合は、殆どが自らに不利益を被り、自分自身の人生の好転の機会を他人に完全に委託する自己中心的な思考の持ち主である。確かに、大半の人間は力がない。それは筋力や財力の話ではなく、人は多数派である事に圧倒的な優越感と自己肯定感を感じる生き物であるからだ。だが、問題なのはそこではない。真に問題なのは全ての責任、全ての機会を政治に委託する事によって民主に対する利益のリターンをいつか求められる可能性が高いという話だ。我々が『生活が苦しいから一万円を給付してほしい!』とクーデターを起こしたとしよう。確かに人々の力は多数派である事で発揮されるであろうから、これによる一時的な利益を享受する事は可能なのかもしれない。
しかし、その一時的な利益が今後の社会経済的にどのような影響を与えるのかを理解している人間は大変少ないように感じる。確かに全国民に一万円を給付する事は大変有益な事かもしれない。が、これによって人民に対する需要を満たす事で政府は多少人民に不平等な政策を捩じ込める可能性が0の場合と比べて高くなるからだ。目に見える一時的な利益を追い求める事が今後の社会的発展に貢献出来るかどうか。私に断言する事は出来ないが、私は少なくとも不利益を被る可能性が高いと思う。
このような一時的な快楽を求めて大意を追えなくなる行動の事を私は快楽的判断力低下と呼んでいる。快楽的判断力低下は私達の日々の生活でも頻繁に起こり得る事だと思う。例えば、自分は勉強をしなければならないが、自らの惰性に打ち勝つ事が出来ず結局スマホを触って1日が終わるという事などだ。これもスマホという一時的な快楽を求めて大意にあたる勉強を出来なくなる。という行動も私は快楽的判断低下であると思う。
これを政治的立場に当て嵌めて考えてみる。
彼らは長期的なスパンで利益を得られる事を知っている、或いは勘づいている。彼らは世の中の人間より比較的教養を持ち合わせ、社会を上位の立場から俯瞰出来る環境で生まれ育ってきた人間であるからだ。社会に於ける利益の出し方を大変理解している。このような一時的な利益を追い求めるリスクを十分理解し、それを"敢えて"国民に享受させる事を自分の利益を最終的に増加させる事が出来るのだ。

人間の思考は基本的にマイナスであり、そこに少しのプラスを与える事で世の中の大半は盲目になるのだ。

このような事態は、どう考えるべきなのだろうか。少なくとも言える事は、この事態の根幹は資本主義によるものであり、近年の資本主義の隆盛が経済格差を浮き彫りにした。資本主義の利点を享受した後のリターンを今になって私たちは返さなければならないのだ。だが、私は共産主義に対しても嫌悪感と矛盾が生じている。その事から今の日本の世の中には腐った政党しかいないのかもしれない。やはり、人は多数派で居なければ何も出来ない無力な生き物だ。その点で言えば人間は植物よりも遥かに弱いのだ。と言うか、人とは比較対象にならないぐらい植物の生命力は高い。
どれだけ踏まれようが、どれだけ枯れようが、孤独であろうが、決して壊れないから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?